
会長談話室(バックナンバー)
~ときの流れ、まちの風~
その20 (2022年5月2日)
立川の多摩における隆盛は、街のイメージ一新でした。米軍基地の街、競輪ギャンブルの街といえば子育て中のパパ・ママにとっては近づきたくない街。それが国営昭和記念公園の開園ですっかりイメージチェンジできました。国立の研究機関の招致も決まり、文字通り樹木の緑と水と空の碧さに彩られたグリーンスプリングスが地元企業の立飛によって開発され、多摩のゲート・タウンとしての面目躍如となりました。
昭和天皇御在位50年記念事業の一環で、1983年10月天皇ご臨席で、立川口モール、ふれあい広場、みんなの原っぱなど、計画面積の一部70haが開園されました。現在の公園面積は180haですから、何回かに分かれて開発が行われてきました。基本コンセプトは「緑の回復と人間性の向上」。戦後の焼け跡から死に物狂いで「経済大国」を目指します。その間、水俣病・四日市ぜんそく・カドミウム事件と環境を壊しながらの経済発展でした。ようやく周囲を見渡す経済的余裕を持った日本は、「これではいけない」と公害先進国から「反」公害先進国を目指し、1971年に環境庁(現環境省)を設置し、大気汚染や水質汚濁などの公害防止に本腰を入れます。経済的余裕の次は人間性の回復というスローガンの延長線上に「国営昭和記念公園」の建設がありました。
桜の満開時期を過ぎ少し小雨模様の公園を、穂積管理センター長と峰岸マネージャーのお二人にご案内いただきました。公園のお車の手配もあり、おかげで広大な園内をくまなく回ることができました。
コロナ前は来園者が年間400万人を超えていた国営公園。この広大な公園はL字型で東西に都市軸、南北に自然軸にAからEの5つのゾーンに分けられています。最も東にあるAは「みどりの文化ゾーン」。立川駅にもっとも近くて「花みどり文化センター」やモール(緑の芝生でイベントが開催可能)といった街の賑わいと調和するデザイン。西に向かってBは「展示施設ゾーン」で、シンボルのカナール(運河)は、小憎い演出の噴水と黄色に色づくイチョウ並木は紅葉時期には老若男女の人気スポット。突き当りのCは「水のゾーン」でシンボルは「水鳥の池」。この池の水は全部公園に降る雨水を循環させるシステムでまかなうのです。一番奥に「レインボープール」。このエリアは、夏は水着の恋人たちのメッカで最盛期は30万人が夏に押し寄せましたが、現在は設備の老朽化で閉鎖中。昭島口に近いこのエリアの再開発が待たれます。Dから北に向かう自然軸は「広場ゾーン」で、「みんなの原っぱ」には、シンボルの欅の大木が太陽に向かって大きく枝を張っています。このゾーンにあるバーベキューガーデンは学生達にとってはなじみのところ。文字通り「花より団子」。さて砂川口に近い最も北のEは「森のゾーン」です。回遊式の「日本庭園」と多摩・武蔵野の里山の面影を残す「こもれびの里」。高度成長を走りきる際に忘れてきた「日本の原風景」でしょうか。そして立川で最も高い丘を覆う木々がうっそうとした森を作ります。この起伏は「多摩ニュータウンの開発で削った土砂」ということも印象的です。「直線」ではなく「循環」。これが公園の基本哲学かもしれません。「渓流広場」にはちょうどチューリップが満開の春を讃えていました。

各国から送られた大理石が敷き詰められた
カナールの入り口

欅の大木は古から残った公園のシンボル

日本の原風景が偲ばれる「こもれびの里」

「春を彩る」渓流広場のチューリップ
その19 (2022年4月1日)
国立は多摩地域の中で市域も小さく平坦で多摩川のたもとにあります。1952年に東京都で初めて「文教都市」の指定を受けた「小さな真珠」のような街です。この品格ある街は、「ピストル康次郎」と恐れられた西武王国総帥の堤康次郎の辣腕から生まれました。育ててくれた祖父母の死後、早稲田大学に進学するために、滋賀の先祖伝来の田畑を売り払い上京。でも大学では勉学よりも政治と経済活動に熱心でした。政治家永井竜太郎や高橋清右ヱ門の書生として、またはリゾート地として屈指の軽井沢や箱根の開発に向けて辣腕を振るいます。
「人生最高の仕事は政治」と豪語して衆議院議長にまで上り詰め、祖父に誓った「堤家の再興」を果たしますが、彼は幼少時に母と生き別れになり「母性」に飢えて育ったためか、女性遍歴が止まりません。パルコ、ロフト、無印良品など、池袋から消費文化の先端を切り拓く「セゾン・グループ」を率いた清二の母操は、清楚な香り漂う歌人。国土計画、プリンスホテルや西武鉄道からなる「西武王国」を率いた義明の母は政治家の娘。典型的家父長の父に反発した清二は、共産党に。父に不自然なほど従順な義明は、庶子ながら康次郎の後継者としての道を。
康次郎のライバル「強盗慶太」こと東急の総帥五島慶太が、渋沢財閥と組んで開発した田園調布の向こうを張り、この郊外の地を一大文教都市にしました。丸の内に通う高級ホワイトカラーのための田園調布に対抗する意味もありました。中央線国分寺駅と立川駅に挟まれた新駅だから「国立」。三角屋根の旧駅舎から「滑走路」のような大学通りが多摩川に向かって垂直線で伸びています。春は桜、秋は銀杏の並木道。清二とその母操は、開発間もないこの国立の「あるじ不在の家」に住まいます。1925年東京商科大学(一橋大学の前身)を誘致することで、文教都市国立の礎が築かれます。学長選挙に学生まで投票できた自由でユニークな学風は、文部行政とは一線を画したことで睨まれました。兼松講堂をランドマークにした少数精鋭の文系難関大学として、現在も数多の英才を経済界・法曹界に輩出しています。また文教都市国立に歴史の彩りを添えるのは、多摩川の河岸段丘の上に鎮座する谷保(やぼ)天満宮。言わずと知れた菅原道真を祀るために三男道武が903年に建立したと伝わっています。周辺は武蔵野の面影残る田園地帯です。
入試合戦も終わった3月の「花曇り」のある日、国立を訪れました。桜はまだ早かったのですが、春の息吹が感じられ、ビバルディの「四季―春―」のメロディがあちこちから聞こえてきそうです。一橋大学のキャンパスはちょうど卒業式。人生の楽園である大学の外は、不確実と理不尽が蔓延する厳しい世界。傷ついてもなお頑張って欲しい。バブルの崩壊とともに往時の西武王国はその輝きを次第に失い、セゾン文化を偲ばせる多くも解体されてしまいました。しかし堤康次郎が一代で作り、二代目達がそれを磨いた「西武ブランド」は、今も多摩丘陵、狭山丘陵、多摩川、玉川上水のそこここに淡い彩りを添えています。

三角屋根がシンボルだった旧駅舎と
春を告げる菜の花・梅の花

「春爛漫」の桜並木は大学通り名物

社会への門出で期待とおそれが交錯する
一橋大学構内の卒業生たち

天神様に願かけて牛を撫でる受験生で一杯になる谷保天満宮
その18 (2022年3月7日)
多摩地域の地層は硬軟の地層が重なり合って、まるでフランス生まれの洋菓子「ミルフィーユ」です。一番硬い岩盤は船形をし、西高東低の傾きで房総半島と一体となり今も隆起を続ける「上総トラフ」。そして多摩川など急流河川が丹沢秩父の岩盤を削り取って運んでくる段丘礫層。さらに富士山や浅間山の噴火で降り積もった肥沃な関東ローム層。そして極めつけは地球の寒暖で一進一退を繰り返した海底の泥炭の堆積。だから内陸部なのにクジラも化石で残っていますし、地震にも強いミルフィーユ地層なのです。
狭山丘陵の小河川を源流としていた残堀川は、今は瑞穂町の閑静な住宅に囲まれた狭山池とつながります。古くからある残堀川は玉川上水の助水の役割を期待されたのです。でも玉川上水開鑿前から、すでに残堀川の流域を中心に南の砂川に向かって新田開発が開始されていました。街道の整備と養蚕や織物で地域は発展していきます。残堀川の流れる流域は平坦なうえに流量が少ないのに、雨期には度々氾濫する気難しい河川でした。明治期には既に残堀川を経由した汚水が玉川上水に流れ込みだし、上水から切り離す工事が行われます。そして1963年に玉川上水が残堀川を伏せ越す形で一気の流れるように直線状に改修されました。
892年桓武平氏の祖・高望王の創建になる瑞穂町殿ヶ谷の阿豆佐味天神社は、秩父平氏の流れをくむ村山党に始まり、時代を下って小田原北条氏、徳川幕府の寄進などによって高い格式が保たれます。この地に暮らす村山党後裔を名乗る岸村の村野家を中心に、畑地の開発が開始されます。保水する関東ローム層を突き破らないよう注意深く残堀川をつたって開墾。艱難辛苦を乗り越え徐々に立川の砂川までたどり着いた農民たち。所々にある「水喰い土」に貴重な水が吸い取られます。上州の空っ風も吹きます。玉川上水からの砂川分水を得てようやく安定する農耕生活。思わず神に感謝し、砂川の地に1629年に分社を勧請します。米軍基地反対闘争の発足を誓った砂川の阿豆佐味天神社がその分社です。
さて、残堀川は立川断層をつたって武蔵村山の日産自動車テストコースに沿って一直線で流れます。ミスター・コストカッター、カルロス・ゴーン被告の餌食にされ工場はなくなりました。強欲資本主義の権化のような男は、日本型組織の弱点を突く剛腕で日産とその傘下の企業の運命を揺さぶったのです。「新自由主義」の風潮は、結果第一主義。創意工夫の努力や協力といった温かい人間性を必要とする現場の協働を軽視し、いつのまにか日本のものづくりは衰退してゆきました。今それを払しょくする手だてを考えなければ、日本はもっと世界ランクを落としてゆくでしょう。
多摩川合流地点から約1.5キロさかのぼった先にある1968年竣工の「大滝」は落差10mの構造物。かつては流域の生活排水で汚れに汚れ「泡を吹いて」いました。今なお私たちを苦しめる環境問題の象徴でもあったのです。環境保護のために汚水処理施設も付近にできたので、残堀川の水量も減少していきます。国営昭和記念公園を流れる残堀川は、菅や葦が繁茂し水の流れを観察できません。昭島口の再開発でどう残堀川をよみがえらせるのか、今から楽しみです。

残堀川源流の狭山池(筥の池)
には残堀川流出口が見える

古代の面影が残る灯篭と阿豆佐味天神社の境内

日産テストコース跡に直線で並行する残堀川

多摩川の合流する直前直角に曲がる「大滝」付近
その17 (2022年2月1日)
暦で「大寒」の日にふさわしく、日の出町はうっすらと粉雪。平井川近くの沢の水を利用して回っている水車から風で飛び散った水が凍っています。コロナの第6波でピリピリ感が漂う電車を乗り継ぎ、向かう先は2006年中曽根元首相から町へ寄贈された「日の出山荘」。そこは、貿易摩擦でぎくしゃくする日米関係の改善と米ソ冷戦体制の終結にむけて「ロン・ヤス会談」が行われた歴史の舞台。
「ゴルバチョフさん、ゲートを開けて下さい。この壁を叩き壊しましょう。」と、レーガン大統領が「悪の帝国」と名指しした国のリーダーに直接言ったかどうか確認できませんが、首都ワシントンにあるロナルド・レーガンビルにはそう書かれた壁の残骸がモニュメントとして置かれています。東西にドイツを分断していた壁は除かれ、ソ連も崩壊した激動の時代。就任時メディアからさんざん叩かれ、暗殺未遂事件も起きたレーガン大統領。でも任期を終えた時「普通の男が屈指のリーダーになって、たくさんのことを成し遂げた」と絶賛されます。「ライジング・サン」と称賛された1980年代のバブル期の日本。世界も希望に燃えていたあの頃が、新型コロナに翻弄される現在懐かしく思い出されます。
「中曽根、お前首相になりたいか?なりたいなら10年間は無役を通して勉強しろ。」と朝日新聞の名物記者に諭され、中曽根さんは晴耕雨読の日々。同時に「来るべき日」に備えて政治家仲間、学者・メディア人で構成されるブレーンで脇を固めます。雌伏時代(kill the time)の場所は、東京の奥座敷日の出町。杉の大木に囲まれ昼なお暗い山の中腹の土地は、蛇が出没するやぶだらけ。しかも江戸時代に建てられた廃屋だけ。しかし一目ぼれです。都心から近いので直下型大地震でも大丈夫。滝があり、池があるので水は豊富。そこで、棚田を作ります。改築した茅葺の家を「日の出山荘」と名づけます。「三角大福中」と首相候補が目白押しの時代。選挙では福田さんと激しい上州戦争、首相への道は起伏に富んだ茨道。世間では「風見鶏」と揶揄されますが、念願の首相の座をついに射止めます。
首相時代は、日本は経済大国としての矜持を問われる時代。国際的に通用するリーダーとして果敢に挑みます。1983年1月首相としてワシントン入りし、「不沈空母」発言でレーガンとの絆づくり。それが実り、11月「日の出山荘」にレーガン夫妻を招待。対米貿易黒字が300億ドルを突破した1985年、「プラザ合意」で円高を容認します。レーガン・サッチャー流の「新自由主義」に舵を切り国鉄、電電公社、専売公社、いわゆる「三公社の民営化」へ。1987年、ポスト中曽根をめぐり、ニューリーダー「安竹宮」は大混戦のはてに「中曽根一任」。消費税導入の課題もあり、首相・竹下、幹事長・安倍(安倍元首相の父)、副総理兼蔵相・宮沢と裁定した後日、「日の出山荘」に三人を呼び、もてなします。
かつてメディアに取り上げられ、記者や官僚たちがしきりに訪れていた主人なき「覇権の館」は、粉雪が舞う山中にひっそりと佇んでいます。華やかな権力の儚さと侘しさを感じながら、新撰組組長近藤勇の遠縁が営む近藤醸造で「亀甲五」ブランドの醤油を買い帰路につきました。

平井川傍の水車。山水が氷る寒さ

大寒の日の「日の出山荘」を庭越しに眺める

平井川はやがてあきる野・
福生両市付近で多摩川にそそぐ

町の子どもたちや宮岡町長とレーガン大統領夫妻(当時)
写真提供:日の出町
その16 (2022年1月4日)
能面を伏せたような雅な大岳山。その麓の里は、貴種伝説も残る由緒ある土地柄。700年頃から先端技術を修め文化にも秀でた高麗系渡来人たちは、大和朝廷から開拓の命を受け、畿内河内地方からいくつもいくつも峠を越えて、ようやく「人里」あたりに移り住みました。土地の人以外読めない「へんぼり」という地名にその名残があります。「王子が城」の地名の謂れは、豪族橘氏が村上天皇の血を引く王子を匿うための居館があったから。それから時代は移り、武田の滅亡とともに甲斐に迫る追っ手を振り切って八王子に逃れる際に立ち寄った家に、松姫がお礼として残した手鏡が伝わります。松姫が頼った八王子の北条氏照。その配下である平山氏重が居館とした檜原城は、小田原北条と運命を共に落城します。千足で自刃したと伝わる氏重の着用した(と思われる)甲冑の錆びついた一部が檜原村郷土資料館に。その氏照も、秀吉による小田原北条攻めの後、敗者として兄である氏政とともに切腹。無常な時代の移ろいを感じさせます。
「子どもたちは合併反対、檜原村がいいと。だから一人前の『むら』として自立できるように、財政健全化めざして血の滲むような努力をしてきました。」と、真下を渓流南秋川が流れる庁舎で坂本義次村長さんの第一声。多摩地域唯一の「村」。先端のまち渋谷にも「Bunkamura」があることだし、「村」はネーミングとして新感覚かな。「みどり せせらぎ 風の音 Tokyo 檜原村」と、ひらがな・漢字・アルファベット混合のキャッチフレーズも新感覚。財政的に自立して「我が道を」は決して楽ではありません。しかし考えようによっては、「自らの力で切り開ける自由」が手に入ります。光ファイバー敷設で電子自治体を目指し、下水道整備、LED防犯灯整備。バイオマスエネルギー活用で「数馬の湯」はハイカー達で大賑わい。他方で聖域なき行政改革に大ナタも振るいます。議会の反対にもめげず、山里の村は時代の先端かも。先端を担った渡来人末裔の血がやはり流れているのです。
村の人口は、1975年4800人弱、そして2020年2140人弱。人口減少に歯止めをかけたい、若い世代を呼び込みたいと必死です。その一つが子育て支援。出生祝い金、乳幼児育児用品補助、保育・給食費等補助、バス通学費無料、高校生通学費80%補助、そして奨学金制度と盛りだくさん。冗費を削っての厚い支援。総面積の93%が森林だから、ICT化された木造図書館も、小中学校も内装に地元産材を活用。その極めつけは「檜原森のおもちゃ美術館」。木育と文化継承、そして多世代交流を目的として2021年11月3日満を持してオープンしました。私が村にお伺いした日は群馬県の中山間地の自治体からの見学者で大賑わい。でも子育てなどしたこともないような(失礼!)男性ばかり。たくさん学んで欲しい。坂本村長さんの行政経営哲学はおすすめ。外から大挙して見学に来れば、檜原村にお金が落ちます。専用モノレールで急峻な傾斜でたどり着いたところが、国指定重要文化財の茅葺の古民家「小林家住宅」。その敷地から眺める真っ青な空と、雄大な山並にすぐそこに来ている「新しい年」を感じました。

「艶やかな女性の能面」のような大岳山