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会長談話室(バックナンバー)

~ときの流れ、まちの風~

 美しい多摩川フォーラムの細野助博会長が、時には多摩川の上流から下流までを実際に訪ね歩き、地域に残る歴史・文化や環境問題、多摩づくりについて等、その時の想いを綴ります。

 月に1回くらいのペースで更新していきますので、お楽しみに!

その20    (2022年5月2日)

 立川の多摩における隆盛は、街のイメージ一新でした。米軍基地の街、競輪ギャンブルの街といえば子育て中のパパ・ママにとっては近づきたくない街。それが国営昭和記念公園の開園ですっかりイメージチェンジできました。国立の研究機関の招致も決まり、文字通り樹木の緑と水と空の碧さに彩られたグリーンスプリングスが地元企業の立飛によって開発され、多摩のゲート・タウンとしての面目躍如となりました。


 昭和天皇御在位50年記念事業の一環で、1983年10月天皇ご臨席で、立川口モール、ふれあい広場、みんなの原っぱなど、計画面積の一部70haが開園されました。現在の公園面積は180haですから、何回かに分かれて開発が行われてきました。基本コンセプトは「緑の回復と人間性の向上」。戦後の焼け跡から死に物狂いで「経済大国」を目指します。その間、水俣病・四日市ぜんそく・カドミウム事件と環境を壊しながらの経済発展でした。ようやく周囲を見渡す経済的余裕を持った日本は、「これではいけない」と公害先進国から「反」公害先進国を目指し、1971年に環境庁(現環境省)を設置し、大気汚染や水質汚濁などの公害防止に本腰を入れます。経済的余裕の次は人間性の回復というスローガンの延長線上に「国営昭和記念公園」の建設がありました。


 桜の満開時期を過ぎ少し小雨模様の公園を、穂積管理センター長と峰岸マネージャーのお二人にご案内いただきました。公園のお車の手配もあり、おかげで広大な園内をくまなく回ることができました。


 コロナ前は来園者が年間400万人を超えていた国営公園。この広大な公園はL字型で東西に都市軸、南北に自然軸にAからEの5つのゾーンに分けられています。最も東にあるAは「みどりの文化ゾーン」。立川駅にもっとも近くて「花みどり文化センター」やモール(緑の芝生でイベントが開催可能)といった街の賑わいと調和するデザイン。西に向かってBは「展示施設ゾーン」で、シンボルのカナール(運河)は、小憎い演出の噴水と黄色に色づくイチョウ並木は紅葉時期には老若男女の人気スポット。突き当りのCは「水のゾーン」でシンボルは「水鳥の池」。この池の水は全部公園に降る雨水を循環させるシステムでまかなうのです。一番奥に「レインボープール」。このエリアは、夏は水着の恋人たちのメッカで最盛期は30万人が夏に押し寄せましたが、現在は設備の老朽化で閉鎖中。昭島口に近いこのエリアの再開発が待たれます。Dから北に向かう自然軸は「広場ゾーン」で、「みんなの原っぱ」には、シンボルの欅の大木が太陽に向かって大きく枝を張っています。このゾーンにあるバーベキューガーデンは学生達にとってはなじみのところ。文字通り「花より団子」。さて砂川口に近い最も北のEは「森のゾーン」です。回遊式の「日本庭園」と多摩・武蔵野の里山の面影を残す「こもれびの里」。高度成長を走りきる際に忘れてきた「日本の原風景」でしょうか。そして立川で最も高い丘を覆う木々がうっそうとした森を作ります。この起伏は「多摩ニュータウンの開発で削った土砂」ということも印象的です。「直線」ではなく「循環」。これが公園の基本哲学かもしれません。「渓流広場」にはちょうどチューリップが満開の春を讃えていました。

カナール

各国から送られた大理石が敷き詰められた

カナールの入り口

欅の大木

欅の大木は古から残った公園のシンボル

こもれびの里

日本の原風景が偲ばれる「こもれびの里」

チューリップ

「春を彩る」渓流広場のチューリップ

その19    (2022年4月1日)

 国立は多摩地域の中で市域も小さく平坦で多摩川のたもとにあります。1952年に東京都で初めて「文教都市」の指定を受けた「小さな真珠」のような街です。この品格ある街は、「ピストル康次郎」と恐れられた西武王国総帥の堤康次郎の辣腕から生まれました。育ててくれた祖父母の死後、早稲田大学に進学するために、滋賀の先祖伝来の田畑を売り払い上京。でも大学では勉学よりも政治と経済活動に熱心でした。政治家永井竜太郎や高橋清右ヱ門の書生として、またはリゾート地として屈指の軽井沢や箱根の開発に向けて辣腕を振るいます。


 「人生最高の仕事は政治」と豪語して衆議院議長にまで上り詰め、祖父に誓った「堤家の再興」を果たしますが、彼は幼少時に母と生き別れになり「母性」に飢えて育ったためか、女性遍歴が止まりません。パルコ、ロフト、無印良品など、池袋から消費文化の先端を切り拓く「セゾン・グループ」を率いた清二の母操は、清楚な香り漂う歌人。国土計画、プリンスホテルや西武鉄道からなる「西武王国」を率いた義明の母は政治家の娘。典型的家父長の父に反発した清二は、共産党に。父に不自然なほど従順な義明は、庶子ながら康次郎の後継者としての道を。


 康次郎のライバル「強盗慶太」こと東急の総帥五島慶太が、渋沢財閥と組んで開発した田園調布の向こうを張り、この郊外の地を一大文教都市にしました。丸の内に通う高級ホワイトカラーのための田園調布に対抗する意味もありました。中央線国分寺駅と立川駅に挟まれた新駅だから「国立」。三角屋根の旧駅舎から「滑走路」のような大学通りが多摩川に向かって垂直線で伸びています。春は桜、秋は銀杏の並木道。清二とその母操は、開発間もないこの国立の「あるじ不在の家」に住まいます。1925年東京商科大学(一橋大学の前身)を誘致することで、文教都市国立の礎が築かれます。学長選挙に学生まで投票できた自由でユニークな学風は、文部行政とは一線を画したことで睨まれました。兼松講堂をランドマークにした少数精鋭の文系難関大学として、現在も数多の英才を経済界・法曹界に輩出しています。また文教都市国立に歴史の彩りを添えるのは、多摩川の河岸段丘の上に鎮座する谷保(やぼ)天満宮。言わずと知れた菅原道真を祀るために三男道武が903年に建立したと伝わっています。周辺は武蔵野の面影残る田園地帯です。


 入試合戦も終わった3月の「花曇り」のある日、国立を訪れました。桜はまだ早かったのですが、春の息吹が感じられ、ビバルディの「四季―春―」のメロディがあちこちから聞こえてきそうです。一橋大学のキャンパスはちょうど卒業式。人生の楽園である大学の外は、不確実と理不尽が蔓延する厳しい世界。傷ついてもなお頑張って欲しい。バブルの崩壊とともに往時の西武王国はその輝きを次第に失い、セゾン文化を偲ばせる多くも解体されてしまいました。しかし堤康次郎が一代で作り、二代目達がそれを磨いた「西武ブランド」は、今も多摩丘陵、狭山丘陵、多摩川、玉川上水のそこここに淡い彩りを添えています。

旧駅舎

三角屋根がシンボルだった旧駅舎と

春を告げる菜の花・梅の花

大学通り

「春爛漫」の桜並木は大学通り名物

一橋大学

社会への門出で期待とおそれが交錯する

一橋大学構内の卒業生たち

谷保天満宮

天神様に願かけて牛を撫でる受験生で一杯になる谷保天満宮

その18    (2022年3月7日)

 多摩地域の地層は硬軟の地層が重なり合って、まるでフランス生まれの洋菓子「ミルフィーユ」です。一番硬い岩盤は船形をし、西高東低の傾きで房総半島と一体となり今も隆起を続ける「上総トラフ」。そして多摩川など急流河川が丹沢秩父の岩盤を削り取って運んでくる段丘礫層。さらに富士山や浅間山の噴火で降り積もった肥沃な関東ローム層。そして極めつけは地球の寒暖で一進一退を繰り返した海底の泥炭の堆積。だから内陸部なのにクジラも化石で残っていますし、地震にも強いミルフィーユ地層なのです。


 狭山丘陵の小河川を源流としていた残堀川は、今は瑞穂町の閑静な住宅に囲まれた狭山池とつながります。古くからある残堀川は玉川上水の助水の役割を期待されたのです。でも玉川上水開鑿前から、すでに残堀川の流域を中心に南の砂川に向かって新田開発が開始されていました。街道の整備と養蚕や織物で地域は発展していきます。残堀川の流れる流域は平坦なうえに流量が少ないのに、雨期には度々氾濫する気難しい河川でした。明治期には既に残堀川を経由した汚水が玉川上水に流れ込みだし、上水から切り離す工事が行われます。そして1963年に玉川上水が残堀川を伏せ越す形で一気の流れるように直線状に改修されました。


 892年桓武平氏の祖・高望王の創建になる瑞穂町殿ヶ谷の阿豆佐味天神社は、秩父平氏の流れをくむ村山党に始まり、時代を下って小田原北条氏、徳川幕府の寄進などによって高い格式が保たれます。この地に暮らす村山党後裔を名乗る岸村の村野家を中心に、畑地の開発が開始されます。保水する関東ローム層を突き破らないよう注意深く残堀川をつたって開墾。艱難辛苦を乗り越え徐々に立川の砂川までたどり着いた農民たち。所々にある「水喰い土」に貴重な水が吸い取られます。上州の空っ風も吹きます。玉川上水からの砂川分水を得てようやく安定する農耕生活。思わず神に感謝し、砂川の地に1629年に分社を勧請します。米軍基地反対闘争の発足を誓った砂川の阿豆佐味天神社がその分社です。


 さて、残堀川は立川断層をつたって武蔵村山の日産自動車テストコースに沿って一直線で流れます。ミスター・コストカッター、カルロス・ゴーン被告の餌食にされ工場はなくなりました。強欲資本主義の権化のような男は、日本型組織の弱点を突く剛腕で日産とその傘下の企業の運命を揺さぶったのです。「新自由主義」の風潮は、結果第一主義。創意工夫の努力や協力といった温かい人間性を必要とする現場の協働を軽視し、いつのまにか日本のものづくりは衰退してゆきました。今それを払しょくする手だてを考えなければ、日本はもっと世界ランクを落としてゆくでしょう。


 多摩川合流地点から約1.5キロさかのぼった先にある1968年竣工の「大滝」は落差10mの構造物。かつては流域の生活排水で汚れに汚れ「泡を吹いて」いました。今なお私たちを苦しめる環境問題の象徴でもあったのです。環境保護のために汚水処理施設も付近にできたので、残堀川の水量も減少していきます。国営昭和記念公園を流れる残堀川は、菅や葦が繁茂し水の流れを観察できません。昭島口の再開発でどう残堀川をよみがえらせるのか、今から楽しみです。

狭山池

残堀川源流の狭山池(筥の池)

には残堀川流出口が見える

阿豆佐味天神社

古代の面影が残る灯篭と阿豆佐味天神社の境内

日産テストコース跡

日産テストコース跡に直線で並行する残堀川

「大滝」付近

多摩川の合流する直前直角に曲がる「大滝」付近

その17    (2022年2月1日)

 暦で「大寒」の日にふさわしく、日の出町はうっすらと粉雪。平井川近くの沢の水を利用して回っている水車から風で飛び散った水が凍っています。コロナの第6波でピリピリ感が漂う電車を乗り継ぎ、向かう先は2006年中曽根元首相から町へ寄贈された「日の出山荘」。そこは、貿易摩擦でぎくしゃくする日米関係の改善と米ソ冷戦体制の終結にむけて「ロン・ヤス会談」が行われた歴史の舞台。


 「ゴルバチョフさん、ゲートを開けて下さい。この壁を叩き壊しましょう。」と、レーガン大統領が「悪の帝国」と名指しした国のリーダーに直接言ったかどうか確認できませんが、首都ワシントンにあるロナルド・レーガンビルにはそう書かれた壁の残骸がモニュメントとして置かれています。東西にドイツを分断していた壁は除かれ、ソ連も崩壊した激動の時代。就任時メディアからさんざん叩かれ、暗殺未遂事件も起きたレーガン大統領。でも任期を終えた時「普通の男が屈指のリーダーになって、たくさんのことを成し遂げた」と絶賛されます。「ライジング・サン」と称賛された1980年代のバブル期の日本。世界も希望に燃えていたあの頃が、新型コロナに翻弄される現在懐かしく思い出されます。


 「中曽根、お前首相になりたいか?なりたいなら10年間は無役を通して勉強しろ。」と朝日新聞の名物記者に諭され、中曽根さんは晴耕雨読の日々。同時に「来るべき日」に備えて政治家仲間、学者・メディア人で構成されるブレーンで脇を固めます。雌伏時代(kill the time)の場所は、東京の奥座敷日の出町。杉の大木に囲まれ昼なお暗い山の中腹の土地は、蛇が出没するやぶだらけ。しかも江戸時代に建てられた廃屋だけ。しかし一目ぼれです。都心から近いので直下型大地震でも大丈夫。滝があり、池があるので水は豊富。そこで、棚田を作ります。改築した茅葺の家を「日の出山荘」と名づけます。「三角大福中」と首相候補が目白押しの時代。選挙では福田さんと激しい上州戦争、首相への道は起伏に富んだ茨道。世間では「風見鶏」と揶揄されますが、念願の首相の座をついに射止めます。


 首相時代は、日本は経済大国としての矜持を問われる時代。国際的に通用するリーダーとして果敢に挑みます。1983年1月首相としてワシントン入りし、「不沈空母」発言でレーガンとの絆づくり。それが実り、11月「日の出山荘」にレーガン夫妻を招待。対米貿易黒字が300億ドルを突破した1985年、「プラザ合意」で円高を容認します。レーガン・サッチャー流の「新自由主義」に舵を切り国鉄、電電公社、専売公社、いわゆる「三公社の民営化」へ。1987年、ポスト中曽根をめぐり、ニューリーダー「安竹宮」は大混戦のはてに「中曽根一任」。消費税導入の課題もあり、首相・竹下、幹事長・安倍(安倍元首相の父)、副総理兼蔵相・宮沢と裁定した後日、「日の出山荘」に三人を呼び、もてなします。


 かつてメディアに取り上げられ、記者や官僚たちがしきりに訪れていた主人なき「覇権の館」は、粉雪が舞う山中にひっそりと佇んでいます。華やかな権力の儚さと侘しさを感じながら、新撰組組長近藤勇の遠縁が営む近藤醸造で「亀甲五」ブランドの醤油を買い帰路につきました。

水車

平井川傍の水車。山水が氷る寒さ

日の出山荘

大寒の日の「日の出山荘」を庭越しに眺める

平井川

平井川はやがてあきる野・

福生両市付近で多摩川にそそぐ

町の子どもたちや宮岡町長とレーガン大統領夫妻(当時)

町の子どもたちや宮岡町長とレーガン大統領夫妻(当時)

​写真提供:日の出町

その16    (2022年1月4日)

 能面を伏せたような雅な大岳山。その麓の里は、貴種伝説も残る由緒ある土地柄。700年頃から先端技術を修め文化にも秀でた高麗系渡来人たちは、大和朝廷から開拓の命を受け、畿内河内地方からいくつもいくつも峠を越えて、ようやく「人里」あたりに移り住みました。土地の人以外読めない「へんぼり」という地名にその名残があります。「王子が城」の地名の謂れは、豪族橘氏が村上天皇の血を引く王子を匿うための居館があったから。それから時代は移り、武田の滅亡とともに甲斐に迫る追っ手を振り切って八王子に逃れる際に立ち寄った家に、松姫がお礼として残した手鏡が伝わります。松姫が頼った八王子の北条氏照。その配下である平山氏重が居館とした檜原城は、小田原北条と運命を共に落城します。千足で自刃したと伝わる氏重の着用した(と思われる)甲冑の錆びついた一部が檜原村郷土資料館に。その氏照も、秀吉による小田原北条攻めの後、敗者として兄である氏政とともに切腹。無常な時代の移ろいを感じさせます。


 「子どもたちは合併反対、檜原村がいいと。だから一人前の『むら』として自立できるように、財政健全化めざして血の滲むような努力をしてきました。」と、真下を渓流南秋川が流れる庁舎で坂本義次村長さんの第一声。多摩地域唯一の「村」。先端のまち渋谷にも「Bunkamura」があることだし、「村」はネーミングとして新感覚かな。「みどり せせらぎ 風の音 Tokyo 檜原村」と、ひらがな・漢字・アルファベット混合のキャッチフレーズも新感覚。財政的に自立して「我が道を」は決して楽ではありません。しかし考えようによっては、「自らの力で切り開ける自由」が手に入ります。光ファイバー敷設で電子自治体を目指し、下水道整備、LED防犯灯整備。バイオマスエネルギー活用で「数馬の湯」はハイカー達で大賑わい。他方で聖域なき行政改革に大ナタも振るいます。議会の反対にもめげず、山里の村は時代の先端かも。先端を担った渡来人末裔の血がやはり流れているのです。

 村の人口は、1975年4800人弱、そして2020年2140人弱。人口減少に歯止めをかけたい、若い世代を呼び込みたいと必死です。その一つが子育て支援。出生祝い金、乳幼児育児用品補助、保育・給食費等補助、バス通学費無料、高校生通学費80%補助、そして奨学金制度と盛りだくさん。冗費を削っての厚い支援。総面積の93%が森林だから、ICT化された木造図書館も、小中学校も内装に地元産材を活用。その極めつけは「檜原森のおもちゃ美術館」。木育と文化継承、そして多世代交流を目的として2021年11月3日満を持してオープンしました。私が村にお伺いした日は群馬県の中山間地の自治体からの見学者で大賑わい。でも子育てなどしたこともないような(失礼!)男性ばかり。たくさん学んで欲しい。坂本村長さんの行政経営哲学はおすすめ。外から大挙して見学に来れば、檜原村にお金が落ちます。専用モノレールで急峻な傾斜でたどり着いたところが、国指定重要文化財の茅葺の古民家「小林家住宅」。その敷地から眺める真っ青な空と、雄大な山並にすぐそこに来ている「新しい年」を感じました。

大岳山

「艶やかな女性の能面」のような大岳山

手鏡

松姫から下賜されたと伝えられる

武田菱の家紋がある手鏡

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檜原森のおもちゃ美術館は、

地元産材の木の香りで癒し効果

茅葺の古民家

国の重文「茅葺の古民家」は急峻な山腹に建つ

その15    (2021年12月1日)

 錦秋をまとった山塊が十重二十重と連なる峡谷と石灰岩の峰がそそり立つ奥多摩の地に、凛然として水をたたえる奥多摩湖は人造湖。奥多摩町、小菅村、丹波山村、甲州市が集水域です。1926年人口急増の東京市に飲料水を供する目的でダム建設が計画されます。しかし、下流域との水利の係争、移転補償をめぐっての小河内村民の騒乱、大戦では資材が不足し建設は一時中断。あれこれの紆余曲折で、小河内ダム竣工に20年余りの歳月が流れます。建設現場は国内外の荒くれ者たちであふれかえり、夜半まで飲み歩く喧騒の地でもありました。竣工から当分の間は東洋一のダムですから一大観光地に。バスを仕立て大勢の人々が押し寄せました。現在も利根川水系を補い、都の上水の20%を賄う水源です。おかげで美味しい水が毎日蛇口から。この僥倖、世界の大都市では珍しいのです。


 東京都で最も面積が広い奥多摩町。師岡伸公町長さんにご挨拶の後、企画財政課の山宮課長、德王課長補佐に小河内ダムに関する詳細な資料をもとにした説明と日原鍾乳洞を管理・運営する日原保勝会へ案内をいただきました。奥多摩湖へのオマージュとして、泉鏡花の幻想的な戯曲『夜叉が池』を少し紹介します。深山の「夜叉が池の竜神」である白雪姫が暴れないよう、古老から日に3度の鐘撞きを継いだ主人公は、妖艶な村娘と満ち足りた日々を暮らしていました。他方白雪姫は、仲睦まじい二人に嫉妬しながらも池の深淵からそっと見守ります。その折も折、日照りが続き困窮する村人たちは我を失い、「人身御供」として村娘を差し出せと強要します。主人公と村人との板挟みになった娘は悩んだ末、鋭利な鎌で白桃の胸を一突き。悲嘆した彼は鐘を撞く気もしません。鐘の音で今まで辛うじて自制していた白雪姫は怒り狂い、山津波を引き起こして村を全滅させ夜叉が池を離れます。辛うじて生き残った主人公は娘の後を追い自死。俗界を離れた二人は、誰にも邪魔されず白雪姫が去った池の淵を棲みかに。


 聖と俗を分ける「結界」は、神仏との約束で犯してはならぬ聖なる領域。修験者の祖、役小角が奈良時代に草創したと伝えられる「一石山大権現」も聖なる領域です。その社殿がまさに「お岩屋」と称される日原鍾乳洞。江戸有数の結界として崇められてきました。弘法大師の「硯水」や「手掛石」といわれる鍾乳石も。かつて一石山には大日如来坐像が安置されていましたが、度重なる天変地異で下流に流されます。金色に輝く仏像は952年多摩川を下り、玉川花井の島の村人に発見されます。仏像は人々の尊崇を受け、安置されたその地はいつしか「拝島」と呼ばれるのです。後に、北条氏照の重臣が滝山城の鬼門除けとして拝島の普明寺に移し安置しました。


 昔から開発と補償は表裏一体。縄文の時代からの歴史ある父祖伝来の村を埋没することを選択せざるを得なかった人たちの一部は、補償金を元手に羽村近辺に移住し、「鹿島踊り」などの伝統文化を守ります。このダム建設で多くの犠牲者が出ました。部落の中では一家離散の悲劇もありました。それら悲劇を救済してくれる竜神様がいるかどうかは定かではありませんが、錦秋の中の奥多摩湖は、唯々幽玄かつ厳かなたたずまいを見せていました。

奥多摩湖

幽玄の趣で水をたたえる奥多摩湖

小河内ダム

都民に飲料水を供給する小河内ダム

日原鍾乳洞

照明が幻想的な雰囲気を醸し出す日原鍾乳洞

石灰岩の崖

一石山神社を見下ろす石灰岩の崖

その14    (2021年11月1日)

 「分けいっても分けいっても」と山頭火の歌のように、車は谷あいの道を小菅村に向かいます。霧雨が秋の寂しさを一層募らせます。小菅村は北に丹波山村、西に甲州市、南に大月市、そして東は奥多摩町に接した軍事上の要衝です。甲斐源氏嫡流の武田信昌は一党の遠江守信繁に天神山城を建てさせます。やがて武田家の滅亡により、信繁の子孫は家康の旗本として江戸に移り住みます。大正時代の納税者名簿に「古菅」姓が記されていますが、一部は帰農したのでしょうか。さて、小菅村の幽谷を源流とする小菅川と鶴川は、それぞれ多摩川、相模川へと流れ込みます。


 1955年に2244人となった人口は、一次産業の不振で離村が相次ぎ2021年3月末現在で693人に減少しました。でも現在の小菅村は、過疎化が進む中でも意外に元気なのです。小菅村の公式HPを訪れると、「こ、こすげぇー」、「NPO法人多摩源流こすげ」などのバナーが張ってあります。ヤマメ、わさび、エノキ、こんにゃくなどが「道の駅こすげ」に特産品として陳列されています。また村の空き家を改築した「NIPPONIA 小菅 源流の村」というホテル経営、多摩の源流水を仕込んだFAR YEAST BREWINGの「源流ビール」というクラフトビール。都会の若い感性が自然の恵みに溶け込んだビジネスとなって小菅村を全国に、そして世界に発信しているのです。


 森の資産木材をふんだんに使った村役場を訪ね、舩木直美村長にご挨拶の後、青栁教育長、守重源流振興課長さんからビール会社社長山田志朗さんを紹介してもらいました。古ぼけたビルに入ると、なんと壁にたくさんの賞状。「これは期待できる!ランチには欠かせない」と独り言。2005-6年に欧州に留学しクラフトビールの旨さに嵌まったといいます。「旨い!から作ろう!」と早くも2017年小菅村にビール工場。猛スピードの一大転換には迷いはなかったようです。都心にあった本社も小菅村に移します。IT業界に勤めていた経験が、リモートワークを円滑に進めます。原材料の大麦やホップは全部輸入にこだわり、ビールの輸出にも力を注いでいます。


 取材も終わり、「道の駅こすげ」の「源流レストラン」へ直行し、そこで待ちに待ったランチを。まず、ホップの利いた重めの「源流IPA」。つけ合わせにはヤマメのから揚げと平茸のマリネ。その後、石窯から取り出された熱々の山女魚のアンチョビクリームピッツァと小菅ジャガイモの濃厚ミートソースを平らげました。医者に暴飲暴食を止められているはずなのに、なぜかこの日はすべて無視!近くの山々は大陸からの冷たい空気と太平洋からの湿った空気のせめぎ合いで、秋特有の霧雨に煙っています。食後、少し冷えてきたので帰宅前に「小菅の湯」に。肌がつるっつるになる弱硫黄泉。「小菅の湯」は舩木村長のご招待で、帰りのお見送りもいただき感激しました。なんと贅沢な一日。


「道の駅こすげ」で平茸や「源流ビールセット」を買い求め、勝頼敗戦で甲斐に攻め入る織田・徳川の追っ手をかわし、八王子恩方に逃げる松姫の名が残る松姫峠の標識を見ながら、丹波山村と合流する青梅街道と別ルートで帰路につきました。

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秩父、武蔵の動静を見張る

武田方の天神山城(小菅城)址

(写真提供:小菅村)

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静寂・清潔な工場の中でこそ、

旨い!ビールが作られる

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重厚なクラフトビール「源流IPS」と

平茸のマリネとヤマメのから揚げ。絶品。

小菅の湯.JPG

リピーターも多い、美人作りの名湯「小管の湯」

(写真提供:小菅村)

その13    (2021年10月1日)

 「先生、今の立川の発展は砂川闘争のおかげですよ。」私はびっくりしました。米国から帰国した1998年、中心市街地活性化で全国を飛び回っていた私に、市から「お手伝いを」の電話がありました。モノレールも完成間近、競輪事業の積立金ありで飛ぶ鳥を落とす勢いの立川市。発展の息吹を感じ始めていた矢先、青木市長から直接飛び出した発言でした。


 砂川の歴史とご自身も参加された「砂川闘争」について、詳細な年表と『立川民俗』誌をご用意され、豊泉家9代ご当主喜一さん91歳は、驚くばかりの記憶力で説明してくれます。
 日米で地位に雲泥の差があった1955年に、砂川闘争は始まります。米軍基地の拡張を迫った日米政府に対して、町長を含め砂川町民全体がNOを突きつけました。戦争で耕地が飛行場拡張に強制収容。軍都立川は、米軍からの13回にわたる爆撃で灰燼に帰します。ようやく平和が戻り耕作ができると思っていた農民に、飛行場の拡張話は悪夢の再来。「砂川町基地拡張反対同盟」が、国からの通告4日後に結成されます。「土地に杭は打たれても、心に杭は打たれない」のスローガンで始まる反対闘争は、時には政争、時には流血に染まり、脱落者も出て紆余曲折します。


 雨が降っても地面に吸い取られる「砂の川」の荒れ地が続く台地。1609年頃60haの開発が岸村の村野三右衛門(砂川家のご先祖)から請願されました。まだ玉川上水はなく、井戸水と残堀川の水を使っての開墾が始まります。そして1627年、豊泉他5家による開拓が、砂川闘争のスタートを切った阿豆佐味天神社や流泉寺一帯で本格化します。「神社と寺は、村になくてはならない安定装置です」と豊泉さん。


 1653年に玉川上水が完成し1657年にはもう砂川分水の開削が始まります。玉川上水は水量の確保のため、狭山の谷筋を水源とする残堀川を助水に一時活用。「水は本当に貴重で、水争いには血の雨が降ったようです。」と、用水と水車の研究家小坂克信さん。詳細な資料をご用意して道案内下さいます。玉川上水からの砂川分水取入口は、松中橋の直前に柴崎分水と並んでいます。

 砂川は西から一番、二番と続き十番まで短冊状に区割りがなされます。名主だった砂川家の屋敷森の大きさに今も圧倒されます。分水は防風と堆肥を作るための屋敷森に囲まれた母屋の前を通ります。玉川上水は江戸町民の飲料用の他、物資の運搬にも一時使用し、砂川家にも運搬船何艘かと船着き場がありました。ただ、水を汚染するので早晩禁止に。甲武鉄道(今のJR中央線)がその運搬の役目を引き受けます。
 

 「砂川闘争」は1968年に決着し、1977年に580万haは日本に返還されます。NOの声が勝利しました。現在は国立昭和記念公園、国の研究機関、国立病院。そして、立飛ホールディングスが新たに開発した賑わいゾーン「GREEN SPRINGS」が立川のまちを華やかに特色づけます。JR中央線で新宿に次ぐ乗降客数を誇る立川駅では、大型店舗が林立し賑わいを作ります。豊泉さんとお別れする時、「闘争に早く見切りをつけ代替地に移った家は今でも農家。最後まで頑張ったどの家ももう農家を続けていません。あの闘争は何だったのか」とつぶやかれたのがとても印象的でした。

「砂川闘争」のスタートとなった阿豆佐味天神社

「砂川闘争」のスタートとなった阿豆佐味天神社

砂川家正門と砂川用水

砂川家正門と砂川用水

砂川用水・柴崎用水取入口(松中橋直前)

砂川用水・柴崎用水取入口(松中橋直前)

グリーンスプリングスとまっすぐ延びるサンサンロード

GREEN SPRINGSとまっすぐ延びるサンサンロード

その12    (2021年9月1日)

 選挙で勝利した大統領の宣誓式を見学するため全米からワシントンDCにやってくる大勢の支持者で埋め尽くされる巨大な芝生広場が「ザ・モール」です。この広場は米国連邦議会議事堂とリンカーン記念堂で東西から、国立美術館とテーマ別のスミソニアン博物館群で南北から挟まれています。ライト兄弟の飛行機も人工衛星も天井から宙づりの航空宇宙博物館や恐竜の化石が陳列された自然史博物館がスミソニアン博物館群の代表です。映画『ナイトミュージアム』の舞台で、科学好きの子どもたちのメッカです。


 昭島市はそのスミソニアン博物館の構想を受け継いだような市民図書館、郷土資料室、教育センターなどを併設した「アキシマエンシス」を2020年3月にオープン。エントランスに宙づりの等身大13.5mアキシマクジラの化石がロビーでお出迎えです。ここの図書館は子どもがちょっと位おしゃべりしてもOK。それに書棚脇にゆっくり読書できるイスがいくつも配置されています。クジラの化石のレプリカとともに、市内で発見された様々な化石も陳列され、触ると反応するCGが太古の海だった昭島付近を描いてくれます。ちびっ子たちには格好の遊び場、学びの場。昭島市の文化水準の高さが伝わってきます。


 何故、関東平野の奥まったところに太古のクジラが?その謎を、現代地球科学が大スペクタクルドラマで解き明かします。大恐竜時代が終わり、哺乳類中心に「種の多様化」が起こっていた約3000万年前、大陸・フィリピン海・太平洋の3大プレートの動きで、日本列島を形作る東西2片がユーラシア大陸から引きちぎられました。そして約1500万年前、日本はまだ東西の大きな島に分かれたまま。3000メートル級の深さの海はやがて陸地となります。これがフォッサマグナ。そのフォッサマグナを中心にして今の中部と関東は形作られます。まず500万年前、太平洋の南から火山の島が連続して衝突隆起し丹沢山地。そして300万年前、フィリピン海プレートが太平洋プレートに押されて東日本全体が30キロmほど西に移動して陸地に褶曲が起こり、中部の大山岳地帯。やがてアキシマクジラが泳いでいた200万年前頃、この地域一帯は隆起を繰り返し、山岳地帯は雪と雨と風に浸食されます。多摩川など多くの河川は山から運び込まれる岩石や砂利・砂で、深度3000mの東京湾の深い溝を埋め立てます。こうして関東平野ができました。


 200万年前、昭島近辺はまだ浅瀬の海。クジラの化石が出てきてもちっとも不思議ではありません。1961年8月20日、JR八高線多摩川鉄橋付近で小学校教諭田島正人さんが偶然露出していた上総層群小宮層から発見しました。専門家の助力を得て発掘から約1年、慎重な剖出作業でほぼ完全な形のクジラの化石として復元。太古のクジラは幸運に幸運が重なり200万年の時を経て「奇跡的」に蘇りました。


 発見された場所を尋ねると、コロナ禍をものともせず若者たちが泳ぎ、ちびっ子たちがはしゃぐ多摩川の入り江でした。ちなみに太古のクジラの学名はエスクリクティウス・アキシマエンシス。人類が畑作を覚えて定住し、文化を育んでから高々1万年です。でも現在、温暖化で地球のリズムが狂いだしています。200万年たって蘇ったアキシマクジラは人類の愚行をどう見ているのでしょうか。市から頂いたボトルの美味しい昭島産の水を飲みながら感慨にふけりました。

クジラの化石

「アキシマエンシス」のロビーとクジラの化石

(レプリカ)

クジラの化石(レプリカ)

クジラの化石(レプリカ)

クジラの化石が発見された多摩川鉄橋下

クジラの化石が発見された多摩川鉄橋下

市のクジラの模型とボトル

市のクジラの模型とボトル

その11    (2021年8月2日)

 馬上の土方歳三はもはや幕臣というより、まさしく多摩に根づく「熱き魂の坂東武者」でした。明治2年5月11日、すでに函館湾は官軍の軍艦で埋め尽くされました。圧倒的な火器と物量で攻める官軍に対して榎本武揚、大鳥圭介等は投降を模索します。そんな彼らを相手にせず、函館五稜郭を出た土方は、死に場所を求める新選組残党や函館政府軍の強者を率い、官軍主力部隊の真っただ中に突撃。この常勝のラストサムライは官軍側から一斉に狙撃され、馬上から天上へその魂を移します。鞍から崩れ落ちる時、走馬灯のように駆け巡ったのは、どんな思い出だったのか。喧嘩にめっぽう強い「バラガキ」と呼ばれた子どもの頃か。大國魂神社(六社明神)境内の暗闇で繰り広げられる無礼講に煮えたぎる青春のエネルギーをぶつけた頃か。京のみやこ人の耳目をそばだたせた新選組副長の頃か。


 土方歳三の家は「石田散薬」を各地に売り歩く地主。その義兄である佐藤彦五郎は豪農下佐藤家(脇本陣運営、隣接した本陣運営は上佐藤家)惣領で、日野本郷の名主と日野宿問屋を上佐藤家と交替で兼ねます。日野本郷は多摩近郷の大村。多摩川の渡船場を兼ねた日野宿は、甲州街道の宿場町。日本橋から約40キロ、府中と八王子間15キロの中間にあります。
 滝山城主北条氏照が1567年頃指示した「日野用水」の開削のために、美濃の国から来た佐藤隼人を佐藤家は祖とします。隼人は戦国の落武者、罪人など多くの荒くれ者をつかい、日野本郷一帯が多摩の穀倉地帯になる礎を築きます。代々の家を継いだ佐藤彦五郎は、新選組の勃興期には金主でもあり、自身も官軍との戦いで甲府に出征します。その彦五郎にあてた遺書類に挟まれた洋装・長靴の歳三の写真は、NHKの大河ドラマの影響もあり、全国の「歴女」の心をぎゅっとつかみました。


 さて、日野は北西側が台地、南東側が丘陵で、そして間に挟まれるように浅川と多摩川からの土砂が流れ込む沖積地が広がります。度重なる両河川の氾濫を制して水田耕作ができるように、土塁溝の遺構が古代地層から発掘されています。しかし、「沖積地を一大穀倉地帯にするには、台地のはけ(崖)や丘陵谷戸からの湧水だけでは到底足りません。しかも湧水は稲には冷たすぎます。」と当フォーラム副会長の小倉紀雄東京農工大名誉教授は力説します。石高増加は戦国の世を生き抜くためには必須条件。氏照に限らず何処の領主も田畑拡張に精を出し、同時に水の確保にも意を注ぎます。多摩川からは「日野用水」、浅川からは「川北用水」など、両河川を開鑿・取水して多くの用水が整備され、さらに高台から低地へまるで毛細血管のように「分水」を張り巡らして水田を拡張してゆきました。こうして近世にかけて、この沖積地は武蔵有数の穀倉地帯になりました。なお現在も、10本の用水路が日野市内を流れ、地域の子どもたちに自然観察も含め格好の遊水空間を提供しています。
 

 高幡不動尊は関東有数の古刹。境内には近藤勇・土方歳三両名の顕彰碑と歳三像が建っています。書は幕府典医頭松本順、篆額は会津藩主松平容保による顕彰碑です。「坂東武者の心意気は身分ではなく気概にある」と苔むした顕彰碑は語っているようです。幕末からの激動期を全速力で駆け抜け30代で華々しく散った多摩出身の二人を思い、名物「高幡まんじゅう」を買って帰路につきました。

日野宿脇本陣.jpg

日野宿脇本陣(佐藤彦五郎)宅

日野用水路.jpg

市内を流れる日野用水路

黒川清流公園の湧き水.jpg

夏でも冷たい「黒川清流公園」の湧き水

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高幡不動尊境内の歳三像と顕彰碑

その10    (2021年7月1日)

 玉川上水は河岸段丘の背骨を通ります。その高低差を利用して「分水」され、主に人口の増えた地域の飲料水や新たに開墾された田畑を潤します。野火止用水の他、千川用水など多くの分水が、江戸市中や武蔵野台地の水需要を満たすため開鑿されました。ところが江戸の人口増加は明治になっても止まらず、飲料水確保のため「分水の統廃合」が進められます。しかし、「玉川上水ネットワーク」は実に細やかで、羽村堰を起点とする多摩川の水は神田川から荒川まで東京の河川の殆どに流れ込んでいます。

 羽村の隣、福生は酒どころ。分水がそれぞれ邸内を流れる二大酒蔵、田村酒造場、石川酒造が「嘉泉」と「多満自慢」の二大銘柄で覇を競っています。実はニつの酒蔵は、血縁関係も「濃い」のです。そのあたりの事を、熊川用水が長屋門の正面を流れる石川酒造の第18代ご当主彌八郎さんに聞きました。彼は私の統計学(大学生が最も嫌う科目)を受講してくれた「教え子」。

 石川家には文治政治が完成した江戸中期からの膨大な記録が残されています。それ以前の記録は、幕府のいらぬ詮議を避けるため「悉く処分した」とはご当主の推測。反物と石灰の商いで財を成した石川家は酒造りに進出します。酒作りには良質の米と水が必要。ところが当時の熊川では米生産はゼロ。他方、川向いの小川村は西多摩一の穀倉地帯。石川酒造は、その小川村森田家から酒造りの一切合切を借り1863年頃創業します。その貸借の保証人を当時酒造総元締めの縁戚田村家が務めます。両家の結びつきは、昭島の指田家の次男が石川家に養子、三男が田村家に婿入りした天保年間に始まります。両家はその後も婚姻などで縁を深め、福生と熊川両分水への通水確保でもタッグを組みます。

 「熊川の地名は、多摩川が湾曲し度々氾濫を起こすから曲川(くまがわ)に由来するかな」とご当主。熊川村名主として大金を投じて河川敷に大々的な堤防工事を施して、28ha弱の新田を造成。酒米の確保にも力を入れます。この新田は度重なる多摩川氾濫に苦しめられますが、その都度村民総出で堤防補修に当ります。洪水多発地帯ですからしっかりした堤防が築かれましたが、現在は「北田園、南田園」と穏やかな地名の宅地に変貌しました。

 「代々の家を守るために、時代が何を求めているか、常に考えています」とご当主。多額の投資で開発したせっかくの大規模耕地は、戦後の農地解放で強制的に買収されます。これを契機に「農業から酒造業へ本業・副業の転換を進めた」といいます。高度成長からバブル景気まで順調に増加してきた日本酒の全国販売量は、現在はピーク時の25%にまで落ち込みます。クラフトビールの人気で、日本酒とビールの販売収入は同じくらいに。コロナ禍の今は、「新酒の開発やレストラン事業の他に、宿泊業も開始します」と。新型コロナ禍のカオス時代に策を練って前進しようとする教え子の姿に、思わず「出藍の誉」の文字が頭に浮かびました。

熊川分水

石川家邸内を流れる熊川分水

多摩川写真

明治期の多摩川の写真(提供:石川酒造)

石川家資料集

石川家資料集と清酒と新旧ビール

旧小川家穀倉地帯

多摩川と秋川が合流する旧小川村の穀倉地帯

その9    (2021年6月1日)

 小田原北条氏を大軍でうち滅ぼした秀吉の死後、関ケ原の合戦で勝った家康は、江戸を全国の政治・経済・文化の中心地とする号令を出し、全国の大名には諸工事「御手伝普請」を賦課します。「参勤交代」もその一環です。藩主は一年おきに出仕、正妻と嫡子は江戸屋敷にというずいぶんの出費のかさむものでした。各藩の財政をひっ迫させ、事前に戦いの芽を摘む平和的な工夫です。これは秀吉の朝鮮征伐とは真逆の戦略。先達の失敗に学ぶ姿勢が徳川の世を長期化します。
 

 武家の人たちと彼らの生活を支える町人たちと半々で成り立った江戸の人口は、家康入城の1590年頃で15万人位だったのですが、幕府の地位が盤石になるにつれて人口が増えます。元禄の1690年頃には町方の人口が35万人を越えますから、正式の調査のない武家を加えると70から80万人くらいにまで膨張します。最終的には100万人を超え、ロンドンやパリに匹敵する世界的都市「江戸」が実現します。
 

 都市人口の膨張で、必要な飲料水の量は当然拡大します。お江戸を支えるには、神田上水や溜池上水では到底足りず、1653年に全長42.74キロ米の「玉川上水」を凡そ8か月で完成させ、多摩川の水を江戸市中に供給します。
 

 今回は「玉川上水」についてのエキスパート、羽村市郷土博物館前館長の河村康博さんに案内とご説明をいただきました。「暴れ川の異名をとる多摩川ですが、羽村の取水堰辺では水筋がほとんど変わらないという経験則を前提に堰を築いたようです」との説明。村々の労役で上水が完成し、江戸市中まで水道が引かれたのですが、取り仕切った「玉川兄弟」の功績も無視できません。幕府の資金だけではなく、彼らも地所を手放して工事費を負担します。「二人とも今でいう資金力のある建設業のトップ同士ではなかったかと思います。でも血の繋がった兄弟かどうかはわかりません。彼らの資料がほとんど残っていないのです。」と河村さん。上水の開削期に「水番人」を務めたのは玉川家の手代でした。その後「本当の理由」は歴史の闇のなかに消えてしまいますが、両玉川家は所払いとなります。江戸期の安定とともに「分をわきまえろ」が鉄則となり、突出を許さないきつい社会構造が完成します。江戸期の社会は確かに安定しましたが、時代の流れとともに「4隻の黒船」にひっくり返される時代遅れの構造でもあったのです。


 江戸の人口爆発が生んだ玉川上水開削は分水事業にもつながります。分水による「新田開発は今のニュータウン開発と同根です」と河村さん。何とも大胆な仮説です。「川堤に桜並木」は定番。新田の堤に桜は「ニュータウンに若い人を呼び込む心憎い演出」なのかもしれません。玉川上水の昔に思いをはせながら、取水口で採取された名水「水はむら」をケースごと買って帰路につきました。

羽村の堰

江戸期から変わらない水筋を利用した「羽村堰」

玉川上水

羽村取水口辺の玉川上水。

水を満々とたたえ下流に向かって流れる

井戸

江戸市中の生活水を保障した「井戸」の模型

玉川兄弟

玉川「兄弟」は、後世に何を訴えているのか?

その8    (2021年5月6日)

 戦国を代表する梟雄伊勢宗瑞(早雲)が土台を作った「小田原北条」氏は、小田原城を本拠地に伊豆・相模・武蔵一帯を版図とします。室町幕府の威勢が衰えたことを好機に、領地を求めて戦を繰り返す守護大名など多くの守旧派は「六公四民」の悪税で領民を苦しめます。対して小田原北条氏の領国拡大の目的は「四公六民」への税軽減と、商工業の繁栄で領国民を富ませる「禄寿応穏(領民ともに豊かで健康を維持し、日々平和に暮らせる)」の楽土実現でした。

 そのため権謀術数の限りを尽くし、駿河今川、甲斐武田、越後上杉、三河徳川等と連合離反を繰り返します。版図拡大の道のりは決して生易しいものではありません。二代目氏綱と箱根風祭の里長の娘から生まれた三代目氏康は、早くから合戦に参加し関東に並ぶ者ない大名に。彼と今川氏からの正室から生まれた三男が氏照です。大石氏の養子となり若い時から寝食を共にした勇猛果敢な軍団を率いて多摩川を渡河し、上杉方の三田氏を滅亡させます。入間・多摩地方支配のために、多摩川が削りだした急峻な崖を背にした滝山城を拡充し北の守りを堅固にします。

 将兵と武器糧秣の素早い運搬ができる城と城を結ぶ軍道ネットワークが戦の勝敗を決定します。また城は迫りくる敵から防御する要塞ですが、平時においては行政府として権力の象徴でもあるのです。「戦国時代=城取物語」とはよく言ったもの。滝山城を居城として氏照は数々の戦功をたてました。

 

 滝山城と八王子城を、市役所文化財課の村山修さんに案内していただきました。信玄軍2万を落城寸前で持ちこたえたと言われる天然の要害滝山城は、魅力的で奇しくも今年築城500年。コロナ禍で訪れる人がまばらなのは残念。「大型バスの駐車場がないのです」「それはもったいない」と村山さんと話しながら、車で八王子城へ。関東一の大大名となった四代目氏政。その兄を軍事外交で輔弼する氏照は、滝山城では西からの防備は不十分と判断し城下町、居館、要塞を明確に分離した八王子城を築城します。小田原城に次ぐ拠点城であった八王子城。政務や接待を掌る豪壮な居館跡や国内外の高価な食器類などが発掘され、在りし日の栄華を偲ばせます。「まだまだ不明な点も多いので、発掘調査を続けないと」と村山さんは意気込みます。

 

 加賀前田、越後上杉側に痛手を与えつつ1590(天正18)年6月23日、八王子城は落城。これで小田原城の孤立は確実になり7月6日降伏。氏政と氏照は秀吉から切腹を命じられ、五代目氏直は高野山蟄居後に病死。小田原北条氏は「義によって興き、義によって滅び」ます。五代百年で夢見た戦のない国づくりを、関東入りした家康が継承。新緑に包まれた八王子城の裏手にある氏照の墓にお参りし帰路につきました。

滝山城「急峻な空堀」

敵を寄せ付けない滝山城の「急峻な空堀」

多摩川の合流地点

滝山城から見た秋川と多摩川の合流地点

八王子城虎口の石段

復元された八王子城虎口の石段

(八王子市文化財課提供)

ベネチアングラスレプリカ

氏照の栄華を象徴するベネチアングラスのレプリカ

その7    (2021年4月1日)

「おやじさん、向こう岸まで」「あいよ、まかせてくれ」。雪解けで増水した急流は、生まれ故郷の長良川か移り住んだ先の多摩川でしょうか。流されそうになる船を無事に向こう岸まで渡すための鎖と滑車を巧みに操っている初老の男。渡し船に乗っているのは、母と結婚間近の娘。母娘は、いま芽吹いたばかりの山菜を向こう岸の町に売りに行った帰り。町には母娘の山菜を待ち焦がれている人がたくさん。この娘もやがて嫁に。山菜売りで得たわずかばかりの現銀が嫁入り道具の足しにされます。

 

 山崎が愛した玉堂の人柄は作風に何とも言えない品格を与えます。経済的に何不自由のない家に生まれました。京都で望月派の望月玉泉、円山四條派の巨匠幸野楳嶺を師と仰ぎ懸命に画業に励みますが、京都画壇では自分の夢は叶えられないと煩悶を重ねます。楳嶺亡き後、妻子を連れて上京。狩野派の巨匠橋本雅邦の門をたたきます。こうして抒情的な大和絵の伝統と荘厳な狩野派の双方を真摯に学びます。俳句や和歌も嗜む典雅な教養を介して、対峙する二大流派を見事に融合させた独自画風を編み出しました。

 

 東京大空襲は玉堂のお気に入りの若宮町の邸宅を一瞬のうちに奪います。疎開先の奥多摩でその知らせを聞いた玉堂は落胆します。かねてから愛していた奥多摩に住処を決め、そこを偶庵と名づけました。多摩の玉堂美術館には、偶庵で描いた傑作の多くが展示されています。枯山水の庭でも有名な玉堂美術館をご案内下さるのは、館長の小澤酒造順一郎会長、主事の芳郎さんのお二人。「何故、小澤さん達が?」といつもの不躾な質問。「母が玉堂の孫なのです。彼は風景や鳥獣のスケッチを、丹念に律義に円熟期になっても続けました。」なるほど、絵筆が滑るように走るように作画すると巷間評判だった巨匠を支えたのは、日頃からの研鑽以外の何物でもありませんでした。天下の山種が心酔するはずです。いくつかの作品には、鴛鴦などつがいの鳥獣が描かれていますが、仲睦まじかった玉堂夫妻そのものの姿と言ってもよいでしょう。「夫婦二人三脚で玉堂の画業は完成されたのです」と小澤館長。

 

 その後、小澤館長の案内で多摩川対岸の河鹿園に。ちょうど館主がいらして、往時は繁盛した館内を案内下さいました。玉堂作品を買いつけに引きも切らず来る画商達の定宿でした。美術・骨董にうるさい連中を驚かせるような宝の山。どの部屋の造作にも凝りに凝った意匠が施されています。

 最後に見せられたのは、本物の円山応挙作「桂川と嵯峨野の風景画」。応挙の魂に導かれて、京都、東京、そして奥多摩へ。これが川合玉堂の画業人生だったのかもしれません。真の芸術に触れ、満開の桜を愛でながら帰路に就きました。

春風春水

「春風春水」(1940年作 山種美術館蔵)

河鹿園

玉堂の揮毫による河鹿園の表看板

玉堂美術館

世界の五指に入る日本庭園の枯山水(玉堂美術館)

応挙真筆の「嵯峨野、小倉山、渡月橋の図」

応挙真筆の「嵯峨野、小倉山、渡月橋の図」

その6    (2021年3月1日)

 3月は、寂しさつのるお別れの月。「先生、写真撮影はラバヒル(恋人たちの丘の通称)です」と卒業を控えたゼミ生が伝えてきたのは、もう2年前の話です。学生を見送る立場が定年を迎え、今度は見送られる側に。兄貴のつもりが、いつの間にか親父、そしてお爺に。光陰矢の如し。学生たちには、何かの拍子にふと思い出してほしい。そこに青春があったと。

 近年は都心キャンパスが大流行。でも都心での会合が終わって、広々とした多摩キャンパスに帰るとホッとします。よく学生たちと48.8万平米のキャンパス内を探検しました。探検に値するほど急斜面の山と鬱蒼とした雑木林に囲まれ、雉やタヌキやキツネも生息しています。

 新型コロナ禍の中、キャンパスは様変わり。若者が誰もいない異常さ。野球場の裏側の林の中で「何事もなかったかのように」ひっそりと小川が流れています。立春を過ぎて柔らかくなった水面に、裸の木々を通して春の日が反射します。学生たちとよく訪れたこの可愛い小川は大栗川に合流し、その大栗川は多摩川へと順に学生生活の悲喜こもごもの思いを乗せて流れていきます。

 学生たちと散策しているとき、林の向こうには思いを巡らすことはついぞありませんでした。うっそうと茂る木々にさえぎられていたので、同じような雑木林が続いているのだろうとしか考えなかったからです。

 ところが偶然にも、フォーラム会員「緑の大地会」の浅見理事長のご招待で、多摩キャンパスの「向こう側」の実験圃場を訪れることに。欧米の公園でも雑木の枝や根をチップにして歩道に敷き詰めます。でも「緑の大地会」の実験は一味も二味も違っています。木材チップを養豚場の敷材にすることで吸収・防臭効果をねらうばかりでなく、そのチップを尿などの有機物と混ぜ、雑草にバイオ酵素を混ぜて高機能なたい肥に変化させます。このたい肥で作られたイチゴの甘かったこと!長年化学肥料で痛めつけられてきた大地を、力強い緑の大地に蘇生する、まさに「グリーンエコノミー」創造の意欲的試みなのです。

 中大キャンパスの大半は18代も続く鈴木家の土地でした。富士山がよく見えるこの圃場も森の中の素敵なログハウスも鈴木家の所有。ロッジで鈴木さん特製のおいしいコーヒーを啜りながら、八王子合併前の旧柚木村にまつわる様々なお話をうかがう珠玉の時間を過ごしました。開発で一時的に失われた豊饒な大地。そこに、緑の力強さを再び取り戻す素晴らしい取り組みが始まっています。これを、子どもたちという「未来からの留学生」に誇りをもって引き継ぐ。子どもたちの笑い声が、実験圃場からこだましてくる日を想像しながら家路を急ぎました。

恋人の丘(ラバヒル)

学生達の悩みや喜びの歓声をしっかりと

受け止めてきた「恋人の丘(通称ラバヒル)」

キャンパスの小川

大栗川へとゆっくり流れてゆく中大の小川

実験圃場

浅見理事長の案内で富士山も見える

広大な敷地を見学。敷地の奥には実験圃場が

ログハウス

ステキなログハウスのテラスで

鈴木さん特製のコーヒーをいただいた

その5    (2021年2月1日)

 2000年に開通したモノレールが多摩ニュータウンから立川へ向かう時、多摩川に合流する前の「浅川」を横切ります。「めったに氾濫しない」浅川ですが、2019年10月12日の台風では氾濫しました。青梅でも被害が甚大で、多摩川に架かる橋の半分が濁流にのまれました。

 八王子の区割りには江戸の面影が数多く残っています。何故でしょうか。その謎ときの案内を八王子市役所OBの鈴木泰さんにお願いしました。

 八王子の治山治水や行政を担ったのは甲斐源氏の流れをくむ名門武田家の遺臣達です。代表格は大蔵流猿楽師の次男、大久保石見守長安。長安は、信玄・家康に鉱山開発や徴税の才を買われ異例の出世をとげます。しかしおのれの才に溺れた傲岸不遜な振る舞いと豪奢な生活に明け暮れたとも。彼の死後、「不正蓄財」の咎で、嫡子を含め7人の男子は切腹し、お家も断絶。小田原藩大久保家をはじめ関係する大名たちも改易などの憂き目に遭います。

 長安の八王子での業績の多くは、歴史の闇に消えました。歴史は勝者の記録。真実の程は不明です。ただ、南浅川、浅川両河川の氾濫から八王子の町を守る功績をたたえた「石見土手」の名残が、ひっそりと宗格院本堂の北側境内に残っています。「土手の高さは2m位あったようです」と、案内のお寺の方。

 武田家との因縁は、これにとどまりません。JR西八王子駅に近い市内に「千人町」という名前があります。武田滅亡で主家を失った9人の小人頭と配下の250人同心は、領主家康に「武田家での経験」を買われ、八王子以西の防御と治安維持の役目を与えられます。後に関ケ原への出陣のため、小人頭も千人頭と改め、同心の数を1000人に増やしました。幕藩体制が確立した後公務である「日光の火の番」を交代で務めるために、家康から拝領した「千人町」と日光との間を、誇りをもって往還しました。明治新政府に恭順するまで続くのです。

 

 「松姫通り」というみやびな名前の大通りがあります。信玄息女で才色兼備の松姫は、武田を滅亡に追いやった勝頼の異母妹。信玄を恐れた新興の信長は和睦を求め、嫡子信忠と松姫との婚約を提案します。信玄が破談にした後も、信忠は正室を迎えずに慕い続けますが、本能寺の変直後に信長の死を知り自刃。他方、松姫は武田家の遺児たちを連れ、甲斐に攻め入った織田・徳川の追跡をかわし逃亡。勝頼正室とその兄北条氏照との計らいで、八王子までの苦難に満ちた逃避行もやっとのことで成功します。

 武田・北条の滅亡後「信松尼」と称して戦死者を弔い、長安から送られた「草庵」でその後の人生を過ごします。養蚕や絹織物の技を里人に伝え、近隣の子供たちに教育を施して民にも慕われ、長安や千人同心たちの心の支えにもなった。松姫のために長安が寄贈した草庵は、「金剛山信松院」として今に至っています。2018年には「松姫様400年祭」が厳かに執り行われました。波乱万丈だった松姫の人生を振り返りながら、武田菱の家紋がまぶしい立派な境内で可愛い「松姫もなか」を買い求め家路を急ぎました。

石見土手の遺構

 「誰が何を後世に残そうとしたのか」

多くの謎が秘められた石見土手の遺構

千人町

浅川土手から眺める駅前まで直線で続く千人町の馬場横丁

松姫

才色兼備の中に強さを秘めた松姫座像

信松院

「武田菱」の家紋がまぶしく光る典雅な信松院本堂

その4    (2021年1月4日)

 新型コロナに席巻された激動の2020年から21年という新しい年を迎えました。丑の年ということもあり、菅原道真の無念を思うのですが、平将門、そして源義経も同列。日本人に慕われる彼らは、各地に伝説を残しています。大阪の淀川沿いの淡路、岩手の千厩などが彼らにちなんだ地名。

 さて青梅の地名は将門に。彼が弘法大師ゆかりの金剛寺の近くを訪れ、鞭に使用した梅の枝を馬上から地面に突き刺し「叶うなら咲き誇れ、叶わぬなら枯れよ」というと、その枝は根つき見事な花を咲かせましたが、実はいつまでたっても熟さず青いまま。この謂れから青梅の地名がついたそうです。

青梅の地は、かつて宝の山。頻発する火事から需要される木材、漆喰などに使われる石灰も多摩川の急流を下り、蚕を飼って絹糸にそして織物・反物は街道伝って日本橋へと、江戸の生活と文化を支えます。ですから青梅の地は、大金が舞う宿場町でもありました。

 戦時中、空襲を逃れて青梅に移り住んだ2人の文化勲章受章者がいます。『宮本武蔵』『新・平家物語』などで有名な大衆作家吉川英治と、香淳皇后さまも愛された日本画大御所の川合玉堂です。

講談社や朝日新聞の担当者にとって吉川英治はドル箱作家。しかし若い頃は不遇の時代が続きます。そんな彼を養った糟糠の妻やすは、彼が流行作家になり経済環境が激変するにつれて精神を患うのです。喧噪の生活に疲れたため、彼は半年ほど行方をくらまします。そして、やすの心を鎮めるために建てた赤坂の邸宅も売却し、彼女とは離婚することになります。

その後、ずいぶん歳の離れた文子と結ばれますが、賢夫人の誉高い美人です。その妻と子供たちに囲まれ、創作意欲も一段と増します。そうこうするうちに戦争末期空襲の危険が迫ってきたので、彼は疎開を決意するのです。戦火が及ばない、編集者と依頼や打ち合わせが気軽にできる奥多摩を選びます。移り住んだ2千坪の庄屋屋敷を、吉川は「草思堂」と名づけこよなく愛します。家庭的に恵まれなかった幼少期の辛さを補うように、妹も呼び寄せ何不自由のない青梅の生活が始まります。

彼の小説には、彼の生きざまが警句となって埋め込まれています。エリザベス朝の人気作家シェークスピアのようです。文豪谷崎潤一郎はめったに作家を誉めないので有名で、夏目漱石の作品をけなして平気の人でした。その谷崎が『私本太平記』を私には書けない傑作と誉め讃えています。

しかし没落士族の子として育ち、ろくに学校に行けなかった彼は、人一倍子供の教育には熱心でした。彼らの教育を考えて、住み慣れた青梅を出て北品川の高台に洋風建築の家を建て移り住みます。青梅の邸宅は、彼の死後「吉川英治記念館」として出発しますが、来場者が年々減少し一度は閉館。その後青梅市に寄付され、2020年9月7日、彼の命日に再公開されました。

 年の瀬のある日、この記念館を訪れました。三方山に囲まれた広大な庭。いつでも臨めるように一面のガラス戸の明るい廊下に囲まれた純和風家屋と書斎に使った棟続きの洋風家屋。創作意欲がわかないはずはありません。疎開仲間で日常行き来をしていた川合玉堂は、「つゆはれの雲/かも君は東へ/みやこ恋しと/山をはなれゆく」と書いた絵入りの色紙を彼に贈ります。そういえば庭にある2本の椎の大木は、旺盛な創作意欲に燃える吉川英治を陰で支えてくれた二人の妻のような気もしてくるのです。文子夫人が始めた梅郷近くの和菓子店「紅梅苑」で、我が奥方のために柚子入りの和菓子を買い求め帰路につきました。

金剛寺の青梅

地名の由来となった金剛寺の「青梅」(あおうめ)

吉川英治記念館

「吉川英治記念館」の広大な庭と純和風家屋の母屋

青梅市梅の公園

青梅市梅の公園
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​庭にそびえ立つ椎の木は樹齢500~600年といわれる

その3    (2020年12月1日)

 秋川は、山梨県小菅村や檜原村あたりを源流とし、あきる野の台地に入ると深い渓谷と緩やかな河原を作りながら、あきる野・八王子・福生・昭島の境界付近で多摩川に合流します。あきる野の台地は古代から馬を育てる日本有数の牧場で、その時々の権力者にとって重要な土地だったようです。そのためかわかりませんが、延喜式にも記載される由緒ある阿伎留神社は屋根組がちょっと変わっています。霊験あらたかなのか、社殿には祝詞を上げてもらう家族がいました。

 近くの広徳寺は銀杏の木が有名です。赤や黄色の落ち葉が流れてゆく秋川の河原を過ぎると、禅寺ならではの総門と山門が出迎えてくれます。総門の扁額「穐留禅窟(あきるぜんくつ)」は出雲藩主松平不昧公の手によるもの。御朱印地は40石で、芝の増上寺より10石多く、徳川一門にいかに大事にされてきた寺院かわかります。境内にある2本の「銀杏の大木」から落ちる葉っぱで、あたり一面見事な黄色い絨毯。折から太陽の光が差し込み、周囲の紅葉を揺らしながら柔らかな独特の彩りを与えてくれます。境内の皆さんも感激してか、一様にスマホでパチリ、パチリ。

 徳川から明治に切り替わり、欧米列強に伍してゆくべく富国強兵国家の道をひた走る選択をした近代日本。藩閥を土台とする寡頭政治によって推し進められます。それに反発する人たちは日本国中で自由民権を唱え、各地で学習会を立ち上げます。ここあきる野も例外ではありません。戊辰戦争の賊軍仙台藩士の子として生まれた千葉卓三郎は、深沢村の豪農深沢名生(なおはる)・権八親子の後援を得て、赴任校「五日市勧能学校」を拠点として私擬憲法草案を作成します。その碑が五日市中学校の敷地内にあります。碑文を読むと、法治国家、三権分立、基本的人権が明確に刻まれています。この草案は1968年、東京経済大学の色川大吉教授らの手によって深沢家の土蔵から偶然発見されました。近代日本は、政官のメインストリームだけで準備されたものではなかったのです。国民主権のエキスは、あきる野の地を源流として伏流して行くのです。

 その例を「日本のナイチンゲール」と言われた萩原タケに求めることができます。1878年満5歳で、あの勧能学校へ入学。向学心に燃えた彼女は艱難辛苦の末、満20歳で日本赤十字社の看護生になります。女性活躍などと叫ばれる今日とは雲泥の差。並々ならぬ気配りと努力でハンディを克服し、1910年には日赤の看護師のトップとなります。その間、伏見宮・山内侯爵夫人たちの求めに応じて欧州に随伴します。それがきっかけで国際的活動にも目覚めた彼女は、第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を日本人として受賞します。彼女の生涯は、人生の回り道は決して無駄ではないという教訓を与えてくれます。

 この山間の地は近代日本の黎明期に傑出した人物を生み出し、1983年にはロンとヤスで日米の蜜月を定着させる日の出山荘という歴史的な場も用意しました。あきる野一帯は、駿馬を産出した古代から「時代を先駆ける」伝統がしっかり根づいていたのです。

阿伎留神社

屋根組が特徴的な阿伎留神社

広徳寺の銀杏

広徳寺境内に銀杏の絨毯が広がる

五日市憲章

五日市中学校敷地内に立つ「五日市憲章草案」の碑

その2    (2020年11月10日)

 私鉄青梅電気鉄道による立川駅から御嶽駅間の開通は、昭和4年(1929)でした。多摩を代表する経済人達が出資したこの鉄道は、戦時中に国有化されます。終点奥多摩駅の途中に軍畑(いくさばた)駅があります。なにか血なまぐさい変わった駅名ですが、ロマンチックな伝承もあるのです。伊勢新九郎を祖とする小田原北条氏の一族氏照は八王子の滝山に城を持ちます。彼は外交にも戦にも強く、関東一円にその名を轟かせます。それに笛の名人だったそうです。氏照は反北条の三田綱秀と「軍畑」で交戦。三田勢は敗戦濃厚から辛垣城に籠城しますがあえなく落城。綱秀は落ち延び先で自刃し、ついに三田氏は滅亡します。その三田氏の家紋が駅舎に。さて、彼の孫娘の笛姫は家宝の笛とともに山里に隠れ住みますが、たまたま通りかかった氏照に笛が縁で見初められます。しかし氏照の正室はそれを快く思わず、氏照との逢瀬を楽しんだ笛姫を懐剣で一刺し。その後氏照も秀吉の北条攻めに恭順せず主戦派として切腹を命じられます。まるでギリシャ悲劇を地で行くような物語を思い浮かべながら、隣の沢井駅に着きました。

 

 ここは「澤乃井」のブランドで世界にも進出する小澤酒造の本拠地。23代目のご長男に社長職を譲られたご当主順一郎さんが、秋の紅葉美しい「まゝごと屋」でお待ちになっていらした。出来立ての新酒と豆腐懐石を美味しくいただきながら、「なぜ米がとれない山里に酒造所を?」とぶしつけな質問。よどみない説明を、お酒をいただきながら拝聴です。「米作地帯には大地主が、それぞれ米穀の需給を酒造りで調整していました。お米がとれない地域では山林大地主が、地域の政(まつりごと)を任されました。酒は神事に不可欠。『祭りごと(神事)』は政に通じます。人々を納得させるに、酒は欠かせなかった。代々庄屋の我が家もお酒との縁は当然強く、水も良く江戸にも近いことから、自然と酒造りに入っていったのでしょう。古文書によると、それが1702年頃ということです。」とおっしゃる。と簡単におっしゃるが、その間に320年くらいの時の流れがあるのです。

 お酒が回って「そんなに永く家を維持できたコツは?」と、またぶしつけな質問。「実は小澤家の歴史はもっと古く、信玄配下の猛将で娘婿の穴山梅雪の子孫の可能性も。武田家再興の軍資金を任されていたようです。でも菩提寺に過去帳が残されていないので、はっきりわかりません。その後は庄屋として絹織物を商い、経営の柱である山林の管理を行いますが、古文書から酒造りを始めた年がわかったのです。そうですね、我が家の家訓は『政治に手を出すな』ということでしょうか。でも代々村長もしていましたが・・・。」とにやり。

 ほろ酔い気分でご当主と別れ、「まゝごと屋」に隣接するつり橋から、思わず眼下の多摩川を見て「ゆく川の流れは絶えずして」と鴨長明『方丈記』の一節を口ずさみました。時ならず袂の寒山寺から鐘の響きが伝わってきます。まるで綱秀、笛姫、氏照、梅雪を弔うように。

軍畑駅

軍畑駅舎には滅亡した三田氏の家紋が

小澤家

古い歴史を感じさせる茅葺屋根の小澤家

つり橋

寒山寺へ繋がるつり橋と眼下に広がる多摩川をまゝごと屋から望む

その1    (2020年10月1日)

 人類と感染症は不即不離の関係にあることを歴史が証明してくれます。戦争や交易を通じて細菌やウイルスは拡散してゆくのです。目に見えない未知の攻撃に対して有効な手が打てないとき、迷信に頼るか、祭祀で払おうとするのは洋の東西を問いません。不安の中で時には人々の心を着実に苛むこともあるのです。

 答えの見つからない迷いを生じたとき、ルーツを探りに行く。これも人の業(さが)でしょうか。新型コロナでフォーラム事業の大半が中止に追い込まれましたある日、「多摩川」のルーツを辿ることにしました。「アフター・コロナ時代の美しい多摩川フォーラム」を構想するためのきっかけづくりでもありました。

 最初の訪問先を山梨県の県境にある丹波山村にしました。一説では「多摩川」の名の由来は「丹波川」にあるそうです。取材で訪れた役場では村長さんはじめ、職員さんが親切に応対くださいました。実は、もう一つの目的があったのです。惜しくも昨年亡くなられた前村長の舩木さんを偲ぶためでした。舩木さんは私の教え子の一人です。「多摩地域振興」を探っていらしたのか、私の講義をいつも一番前で聴講していました。羽村市議を経て丹波山村の村長に就任され、交流人口増加による山間地域の振興を熱心に手さぐりされていました。舩木村長を役場に伺った折「のめこい湯」に案内され、お土産に頂いた手ぬぐいにはペン画で有名な玉川麻衣さんの手による7匹の狼が描かれていました。7匹なのは、平将門伝説に由来する7ツ石神社の眷属(神の使い)が狼であることからだそうです。

 狼を眷属とするのは、奥秩父山塊を活動の場とする修験道のネットワーク上にある「三峯神社」「御岳神社」と「7ツ石神社」に共通しています。古くから収穫物を横取りする猪や鹿から山の民の生活を守る山犬(狼)を神の使いとしてあがめてきたからでしょう。三社のお札には狼が描かれています。とくに三峯神社のお札は、キツネが運ぶと信じられていたコレラなどの流行病(はやりやまい)退治のお札としても珍重されたようです。

 多摩川のルーツを求めて訪れた丹波山村の「道の駅」で、狼が描かれたマグカップや鹿肉のレトルトカレー、焼酎を手土産に、往時は金山で賑わった街道を青梅めざして下りました。

丹波川

多摩川の名の由来とされる丹波川

のめこい湯

多摩川源流の名湯・のめこい湯

手ぬぐい7匹の狼

土産で頂いた手ぬぐいには7匹の狼が描かれている

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