会長談話室

~ときの流れ、まちの風~

 美しい多摩川フォーラムの細野助博会長が、時には多摩川の上流から下流までを実際に訪ね歩き、地域に残る歴史・文化や環境問題、多摩づくりについて等、その時の想いを綴ります。

 月に1回くらいのペースで更新していきますので、お楽しみに!

【細野会長 プロフィール】

 日本の経済学者。中央大学名誉教授。財務省財政制度等審議会臨時委員。専門は産業組織論、公共政策論、コミュニティ政策、都市政策論。
 新潟県出身。慶應義塾大学経済学部で加藤寛に師事。同大学院経済学研究科修士課程修了。筑波大学大学院社会工学研究科都市・地域計画専攻博士課程単位取得満期退学。

 日本ユニパック(現日本ユニシス)研究員、帝京大学助教授などを経て、中央大学総合政策学部、大学院公共政策研究科教授。2007年から同大学院公共政策研究科委員長兼務。2019年退任、名誉教授。

 GS1 Japan 評議員会議長、日本酒蔵ツーリズム推進協議会会長、日本公共政策学会元会長。(一社)日本計画行政学会元会長。多摩ニュータウン学会名誉会長。学術・文化・産業ネットワーク多摩専務理事。

 『東京二都物語』(編著、中央大学出版部, 2019年)等、多数。​

 

その6    (2021年3月1日)

 3月は、寂しさつのるお別れの月。「先生、写真撮影はラバヒル(恋人たちの丘の通称)です」と卒業を控えたゼミ生が伝えてきたのは、もう2年前の話です。学生を見送る立場が定年を迎え、今度は見送られる側に。兄貴のつもりが、いつの間にか親父、そしてお爺に。光陰矢の如し。学生たちには、何かの拍子にふと思い出してほしい。そこに青春があったと。

 近年は都心キャンパスが大流行。でも都心での会合が終わって、広々とした多摩キャンパスに帰るとホッとします。よく学生たちと48.8万平米のキャンパス内を探検しました。探検に値するほど急斜面の山と鬱蒼とした雑木林に囲まれ、雉やタヌキやキツネも生息しています。

 新型コロナ禍の中、キャンパスは様変わり。若者が誰もいない異常さ。野球場の裏側の林の中で「何事もなかったかのように」ひっそりと小川が流れています。立春を過ぎて柔らかくなった水面に、裸の木々を通して春の日が反射します。学生たちとよく訪れたこの可愛い小川は大栗川に合流し、その大栗川は多摩川へと順に学生生活の悲喜こもごもの思いを乗せて流れていきます。

 学生たちと散策しているとき、林の向こうには思いを巡らすことはついぞありませんでした。うっそうと茂る木々にさえぎられていたので、同じような雑木林が続いているのだろうとしか考えなかったからです。

 ところが偶然にも、フォーラム会員「緑の大地会」の浅見理事長のご招待で、多摩キャンパスの「向こう側」の実験圃場を訪れることに。欧米の公園でも雑木の枝や根をチップにして歩道に敷き詰めます。でも「緑の大地会」の実験は一味も二味も違っています。木材チップを養豚場の敷材にすることで吸収・防臭効果をねらうばかりでなく、そのチップを尿などの有機物と混ぜ、雑草にバイオ酵素を混ぜて高機能なたい肥に変化させます。このたい肥で作られたイチゴの甘かったこと!長年化学肥料で痛めつけられてきた大地を、力強い緑の大地に蘇生する、まさに「グリーンエコノミー」創造の意欲的試みなのです。

 中大キャンパスの大半は18代も続く鈴木家の土地でした。富士山がよく見えるこの圃場も森の中の素敵なログハウスも鈴木家の所有。ロッジで鈴木さん特製のおいしいコーヒーを啜りながら、八王子合併前の旧柚木村にまつわる様々なお話をうかがう珠玉の時間を過ごしました。開発で一時的に失われた豊饒な大地。そこに、緑の力強さを再び取り戻す素晴らしい取り組みが始まっています。これを、子どもたちという「未来からの留学生」に誇りをもって引き継ぐ。子どもたちの笑い声が、実験圃場からこだましてくる日を想像しながら家路を急ぎました。

学生達の悩みや喜びの歓声をしっかりと

受け止めてきた「恋人の丘(通称ラバヒル)」

大栗川へとゆっくり流れてゆく中大の小川

浅見理事長の案内で富士山も見える

広大な敷地を見学。敷地の奥には実験圃場が

ステキなログハウスのテラスで

鈴木さん特製のコーヒーをいただいた

 

その5    (2021年2月1日)

 2000年に開通したモノレールが多摩ニュータウンから立川へ向かう時、多摩川に合流する前の「浅川」を横切ります。「めったに氾濫しない」浅川ですが、2019年10月12日の台風では氾濫しました。青梅でも被害が甚大で、多摩川に架かる橋の半分が濁流にのまれました。

 八王子の区割りには江戸の面影が数多く残っています。何故でしょうか。その謎ときの案内を八王子市役所OBの鈴木泰さんにお願いしました。

 八王子の治山治水や行政を担ったのは甲斐源氏の流れをくむ名門武田家の遺臣達です。代表格は大蔵流猿楽師の次男、大久保石見守長安。長安は、信玄・家康に鉱山開発や徴税の才を買われ異例の出世をとげます。しかしおのれの才に溺れた傲岸不遜な振る舞いと豪奢な生活に明け暮れたとも。彼の死後、「不正蓄財」の咎で、嫡子を含め7人の男子は切腹し、お家も断絶。小田原藩大久保家をはじめ関係する大名たちも改易などの憂き目に遭います。

 長安の八王子での業績の多くは、歴史の闇に消えました。歴史は勝者の記録。真実の程は不明です。ただ、南浅川、浅川両河川の氾濫から八王子の町を守る功績をたたえた「石見土手」の名残が、ひっそりと宗格院本堂の北側境内に残っています。「土手の高さは2m位あったようです」と、案内のお寺の方。

 武田家との因縁は、これにとどまりません。JR西八王子駅に近い市内に「千人町」という名前があります。武田滅亡で主家を失った9人の小人頭と配下の250人同心は、領主家康に「武田家での経験」を買われ、八王子以西の防御と治安維持の役目を与えられます。後に関ケ原への出陣のため、小人頭も千人頭と改め、同心の数を1000人に増やしました。幕藩体制が確立した後公務である「日光の火の番」を交代で務めるために、家康から拝領した「千人町」と日光との間を、誇りをもって往還しました。明治新政府に恭順するまで続くのです。

 

 「松姫通り」というみやびな名前の大通りがあります。信玄息女で才色兼備の松姫は、武田を滅亡に追いやった勝頼の異母妹。信玄を恐れた新興の信長は和睦を求め、嫡子信忠と松姫との婚約を提案します。信玄が破談にした後も、信忠は正室を迎えずに慕い続けますが、本能寺の変直後に信長の死を知り自刃。他方、松姫は武田家の遺児たちを連れ、甲斐に攻め入った織田・徳川の追跡をかわし逃亡。勝頼正室とその兄北条氏照との計らいで、八王子までの苦難に満ちた逃避行もやっとのことで成功します。

 武田・北条の滅亡後「信松尼」と称して戦死者を弔い、長安から送られた「草庵」でその後の人生を過ごします。養蚕や絹織物の技を里人に伝え、近隣の子供たちに教育を施して民にも慕われ、長安や千人同心たちの心の支えにもなった。松姫のために長安が寄贈した草庵は、「金剛山信松院」として今に至っています。2018年には「松姫様400年祭」が厳かに執り行われました。波乱万丈だった松姫の人生を振り返りながら、武田菱の家紋がまぶしい立派な境内で可愛い「松姫もなか」を買い求め家路を急ぎました。

 「誰が何を後世に残そうとしたのか」

多くの謎が秘められた石見土手の遺構

浅川土手から眺める駅前まで直線で続く千人町の馬場横丁

才色兼備の中に強さを秘めた松姫座像

「武田菱」の家紋がまぶしく光る典雅な信松院本堂

 

その4    (2021年1月4日)

 新型コロナに席巻された激動の2020年から21年という新しい年を迎えました。丑の年ということもあり、菅原道真の無念を思うのですが、平将門、そして源義経も同列。日本人に慕われる彼らは、各地に伝説を残しています。大阪の淀川沿いの淡路、岩手の千厩などが彼らにちなんだ地名。

 さて青梅の地名は将門に。彼が弘法大師ゆかりの金剛寺の近くを訪れ、鞭に使用した梅の枝を馬上から地面に突き刺し「叶うなら咲き誇れ、叶わぬなら枯れよ」というと、その枝は根つき見事な花を咲かせましたが、実はいつまでたっても熟さず青いまま。この謂れから青梅の地名がついたそうです。

青梅の地は、かつて宝の山。頻発する火事から需要される木材、漆喰などに使われる石灰も多摩川の急流を下り、蚕を飼って絹糸にそして織物・反物は街道伝って日本橋へと、江戸の生活と文化を支えます。ですから青梅の地は、大金が舞う宿場町でもありました。

 戦時中、空襲を逃れて青梅に移り住んだ2人の文化勲章受章者がいます。『宮本武蔵』『新・平家物語』などで有名な大衆作家吉川英治と、香淳皇后さまも愛された日本画大御所の川合玉堂です。

講談社や朝日新聞の担当者にとって吉川英治はドル箱作家。しかし若い頃は不遇の時代が続きます。そんな彼を養った糟糠の妻やすは、彼が流行作家になり経済環境が激変するにつれて精神を患うのです。喧噪の生活に疲れたため、彼は半年ほど行方をくらまします。そして、やすの心を鎮めるために建てた赤坂の邸宅も売却し、彼女とは離婚することになります。

その後、ずいぶん歳の離れた文子と結ばれますが、賢夫人の誉高い美人です。その妻と子供たちに囲まれ、創作意欲も一段と増します。そうこうするうちに戦争末期空襲の危険が迫ってきたので、彼は疎開を決意するのです。戦火が及ばない、編集者と依頼や打ち合わせが気軽にできる奥多摩を選びます。移り住んだ2千坪の庄屋屋敷を、吉川は「草思堂」と名づけこよなく愛します。家庭的に恵まれなかった幼少期の辛さを補うように、妹も呼び寄せ何不自由のない青梅の生活が始まります。

彼の小説には、彼の生きざまが警句となって埋め込まれています。エリザベス朝の人気作家シェークスピアのようです。文豪谷崎潤一郎はめったに作家を誉めないので有名で、夏目漱石の作品をけなして平気の人でした。その谷崎が『私本太平記』を私には書けない傑作と誉め讃えています。

しかし没落士族の子として育ち、ろくに学校に行けなかった彼は、人一倍子供の教育には熱心でした。彼らの教育を考えて、住み慣れた青梅を出て北品川の高台に洋風建築の家を建て移り住みます。青梅の邸宅は、彼の死後「吉川英治記念館」として出発しますが、来場者が年々減少し一度は閉館。その後青梅市に寄付され、2020年9月7日、彼の命日に再公開されました。

 年の瀬のある日、この記念館を訪れました。三方山に囲まれた広大な庭。いつでも臨めるように一面のガラス戸の明るい廊下に囲まれた純和風家屋と書斎に使った棟続きの洋風家屋。創作意欲がわかないはずはありません。疎開仲間で日常行き来をしていた川合玉堂は、「つゆはれの雲/かも君は東へ/みやこ恋しと/山をはなれゆく」と書いた絵入りの色紙を彼に贈ります。そういえば庭にある2本の椎の大木は、旺盛な創作意欲に燃える吉川英治を陰で支えてくれた二人の妻のような気もしてくるのです。文子夫人が始めた梅郷近くの和菓子店「紅梅苑」で、我が奥方のために柚子入りの和菓子を買い求め帰路につきました。

地名の由来となった金剛寺の「青梅」(あおうめ)

「吉川英治記念館」の広大な庭と純和風家屋の母屋

​庭にそびえ立つ椎の木は樹齢500~600年といわれる

 

その3    (2020年12月1日)

 秋川は、山梨県小菅村や檜原村あたりを源流とし、あきる野の台地に入ると深い渓谷と緩やかな河原を作りながら、あきる野・八王子・福生・昭島の境界付近で多摩川に合流します。あきる野の台地は古代から馬を育てる日本有数の牧場で、その時々の権力者にとって重要な土地だったようです。そのためかわかりませんが、延喜式にも記載される由緒ある阿伎留神社は屋根組がちょっと変わっています。霊験あらたかなのか、社殿には祝詞を上げてもらう家族がいました。

 近くの広徳寺は銀杏の木が有名です。赤や黄色の落ち葉が流れてゆく秋川の河原を過ぎると、禅寺ならではの総門と山門が出迎えてくれます。総門の扁額「穐留禅窟(あきるぜんくつ)」は出雲藩主松平不昧公の手によるもの。御朱印地は40石で、芝の増上寺より10石多く、徳川一門にいかに大事にされてきた寺院かわかります。境内にある2本の「銀杏の大木」から落ちる葉っぱで、あたり一面見事な黄色い絨毯。折から太陽の光が差し込み、周囲の紅葉を揺らしながら柔らかな独特の彩りを与えてくれます。境内の皆さんも感激してか、一様にスマホでパチリ、パチリ。

 徳川から明治に切り替わり、欧米列強に伍してゆくべく富国強兵国家の道をひた走る選択をした近代日本。藩閥を土台とする寡頭政治によって推し進められます。それに反発する人たちは日本国中で自由民権を唱え、各地で学習会を立ち上げます。ここあきる野も例外ではありません。戊辰戦争の賊軍仙台藩士の子として生まれた千葉卓三郎は、深沢村の豪農深沢名生(なおはる)・権八親子の後援を得て、赴任校「五日市勧能学校」を拠点として私擬憲法草案を作成します。その碑が五日市中学校の敷地内にあります。碑文を読むと、法治国家、三権分立、基本的人権が明確に刻まれています。この草案は1968年、東京経済大学の色川大吉教授らの手によって深沢家の土蔵から偶然発見されました。近代日本は、政官のメインストリームだけで準備されたものではなかったのです。国民主権のエキスは、あきる野の地を源流として伏流して行くのです。

 その例を「日本のナイチンゲール」と言われた萩原タケに求めることができます。1878年満5歳で、あの勧能学校へ入学。向学心に燃えた彼女は艱難辛苦の末、満20歳で日本赤十字社の看護生になります。女性活躍などと叫ばれる今日とは雲泥の差。並々ならぬ気配りと努力でハンディを克服し、1910年には日赤の看護師のトップとなります。その間、伏見宮・山内侯爵夫人たちの求めに応じて欧州に随伴します。それがきっかけで国際的活動にも目覚めた彼女は、第1回フローレンス・ナイチンゲール記章を日本人として受賞します。彼女の生涯は、人生の回り道は決して無駄ではないという教訓を与えてくれます。

 この山間の地は近代日本の黎明期に傑出した人物を生み出し、1983年にはロンとヤスで日米の蜜月を定着させる日の出山荘という歴史的な場も用意しました。あきる野一帯は、駿馬を産出した古代から「時代を先駆ける」伝統がしっかり根づいていたのです。

屋根組が特徴的な阿伎留神社

広徳寺境内に銀杏の絨毯が広がる

五日市中学校敷地内に立つ「五日市憲章草案」の碑

 
 

その2    (2020年11月10日)

 私鉄青梅電気鉄道による立川駅から御嶽駅間の開通は、昭和4年(1929)でした。多摩を代表する経済人達が出資したこの鉄道は、戦時中に国有化されます。終点奥多摩駅の途中に軍畑(いくさばた)駅があります。なにか血なまぐさい変わった駅名ですが、ロマンチックな伝承もあるのです。伊勢新九郎を祖とする小田原北条氏の一族氏照は八王子の滝山に城を持ちます。彼は外交にも戦にも強く、関東一円にその名を轟かせます。それに笛の名人だったそうです。氏照は反北条の三田綱秀と「軍畑」で交戦。三田勢は敗戦濃厚から辛垣城に籠城しますがあえなく落城。綱秀は落ち延び先で自刃し、ついに三田氏は滅亡します。その三田氏の家紋が駅舎に。さて、彼の孫娘の笛姫は家宝の笛とともに山里に隠れ住みますが、たまたま通りかかった氏照に笛が縁で見初められます。しかし氏照の正室はそれを快く思わず、氏照との逢瀬を楽しんだ笛姫を懐剣で一刺し。その後氏照も秀吉の北条攻めに恭順せず主戦派として切腹を命じられます。まるでギリシャ悲劇を地で行くような物語を思い浮かべながら、隣の沢井駅に着きました。

 

 ここは「澤乃井」のブランドで世界にも進出する小澤酒造の本拠地。23代目のご長男に社長職を譲られたご当主順一郎さんが、秋の紅葉美しい「まゝごと屋」でお待ちになっていらした。出来立ての新酒と豆腐懐石を美味しくいただきながら、「なぜ米がとれない山里に酒造所を?」とぶしつけな質問。よどみない説明を、お酒をいただきながら拝聴です。「米作地帯には大地主が、それぞれ米穀の需給を酒造りで調整していました。お米がとれない地域では山林大地主が、地域の政(まつりごと)を任されました。酒は神事に不可欠。『祭りごと(神事)』は政に通じます。人々を納得させるに、酒は欠かせなかった。代々庄屋の我が家もお酒との縁は当然強く、水も良く江戸にも近いことから、自然と酒造りに入っていったのでしょう。古文書によると、それが1702年頃ということです。」とおっしゃる。と簡単におっしゃるが、その間に320年くらいの時の流れがあるのです。

 お酒が回って「そんなに永く家を維持できたコツは?」と、またぶしつけな質問。「実は小澤家の歴史はもっと古く、信玄配下の猛将で娘婿の穴山梅雪の子孫の可能性も。武田家再興の軍資金を任されていたようです。でも菩提寺に過去帳が残されていないので、はっきりわかりません。その後は庄屋として絹織物を商い、経営の柱である山林の管理を行いますが、古文書から酒造りを始めた年がわかったのです。そうですね、我が家の家訓は『政治に手を出すな』ということでしょうか。でも代々村長もしていましたが・・・。」とにやり。

 ほろ酔い気分でご当主と別れ、「まゝごと屋」に隣接するつり橋から、思わず眼下の多摩川を見て「ゆく川の流れは絶えずして」と鴨長明『方丈記』の一節を口ずさみました。時ならず袂の寒山寺から鐘の響きが伝わってきます。まるで綱秀、笛姫、氏照、梅雪を弔うように。

軍畑駅舎には滅亡した三田氏の家紋が

古い歴史を感じさせる茅葺屋根の小澤家

寒山寺へ繋がるつり橋と眼下に広がる多摩川をまゝごと屋から望む

 

その1    (2020年10月1日)

 人類と感染症は不即不離の関係にあることを歴史が証明してくれます。戦争や交易を通じて細菌やウイルスは拡散してゆくのです。目に見えない未知の攻撃に対して有効な手が打てないとき、迷信に頼るか、祭祀で払おうとするのは洋の東西を問いません。不安の中で時には人々の心を着実に苛むこともあるのです。

 答えの見つからない迷いを生じたとき、ルーツを探りに行く。これも人の業(さが)でしょうか。新型コロナでフォーラム事業の大半が中止に追い込まれましたある日、「多摩川」のルーツを辿ることにしました。「アフター・コロナ時代の美しい多摩川フォーラム」を構想するためのきっかけづくりでもありました。

 最初の訪問先を山梨県の県境にある丹波山村にしました。一説では「多摩川」の名の由来は「丹波川」にあるそうです。取材で訪れた役場では村長さんはじめ、職員さんが親切に応対くださいました。実は、もう一つの目的があったのです。惜しくも昨年亡くなられた前村長の舩木さんを偲ぶためでした。舩木さんは私の教え子の一人です。「多摩地域振興」を探っていらしたのか、私の講義をいつも一番前で聴講していました。羽村市議を経て丹波山村の村長に就任され、交流人口増加による山間地域の振興を熱心に手さぐりされていました。舩木村長を役場に伺った折「のめこい湯」に案内され、お土産に頂いた手ぬぐいにはペン画で有名な玉川麻衣さんの手による7匹の狼が描かれていました。7匹なのは、平将門伝説に由来する7ツ石神社の眷属(神の使い)が狼であることからだそうです。

 狼を眷属とするのは、奥秩父山塊を活動の場とする修験道のネットワーク上にある「三峯神社」「御岳神社」と「7ツ石神社」に共通しています。古くから収穫物を横取りする猪や鹿から山の民の生活を守る山犬(狼)を神の使いとしてあがめてきたからでしょう。三社のお札には狼が描かれています。とくに三峯神社のお札は、キツネが運ぶと信じられていたコレラなどの流行病(はやりやまい)退治のお札としても珍重されたようです。

 多摩川のルーツを求めて訪れた丹波山村の「道の駅」で、狼が描かれたマグカップや鹿肉のレトルトカレー、焼酎を手土産に、往時は金山で賑わった街道を青梅めざして下りました。

多摩川の名の由来とされる丹波川

多摩川源流の名湯・のめこい湯

手ぬぐい7匹の狼

土産で頂いた手ぬぐいには7匹の狼が描かれている

美しい多摩川フォーラム

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