
会長談話室
~ときの流れ、まちの風~
美しい多摩川フォーラムの細野助博会長が、時には多摩川の上流から下流までを実際に訪ね歩き、地域に残る歴史・文化や環境問題、多摩づくりについて等、その時の想いを綴ります。
2020年10月から月に1回くらいのペースで更新してきた会長談話室ですが、2024年6月3日の「談話その45」をもってひとまず終了とさせていただきます。
【細野会長 プロフィール】
日本の経済学者。中央大学名誉教授。財務省財政制度等審議会前委員。専門は産業組織論、公共政策論、コミュニティ政策、都市政策論。
新潟県出身。慶應義塾大学経済学部で加藤寛に師事。同大学院経済学研究科修士課程修了。筑波大学大学院社会工学研究科都市・地域計画専攻博士課程単位取得満期退学。
日本ユニバック(現日本ユニシス)研究員帝京大学助教授などを経て、中央大学総合政策学部、大学院公共政策研究科教授。1997-98年メリーランド大学客員教授、2007年から中央大学院公共政策研究科委員長。2019年退任、名誉教授。
GS1 Japan 評議員会議長、日本酒蔵ツーリズム推進協議会会長、日本公共政策学会元会長。(一社)日本計画行政学会元会長。多摩ニュータウン学会名誉会長。学術・文化・産業ネットワーク多摩専務理事。
『東京二都物語』(編著、中央大学出版部, 2019年)等、多数。
その45 (2024年6月3日)
桜の開花が待たれる3月中旬の日曜日、ボートを楽しむ人たちで賑わう大田区の洗足池畔を訪れました。2010年に当フォーラムが「仙台紅枝垂れ桜」を寄贈植樹した縁で大田区の松原前区長、鈴木区長、それに超党派の議員さん達と親睦を深めるためです。洗足池近くの高台に「大田区立勝海舟記念館」と、海舟夫妻のお墓、それに西南の役に敗れた西郷を偲ぶ石碑があります。この幕末の二大英傑は江戸の八百八町が焦土と化すのを未然に防ぐ「知恵」を出しあいました。
ところが昭和の政治家や軍人達は、この先人の苦労を引き継ぐことなく無謀な戦争を始めます。戦況悪化した1945年に入り、連日B29による空襲で首都は焦土に。特に3月10日の夜間空襲で、罹災者100万人超、死者9万5千人超の甚大な被害を出しました。「もし昭和に西郷、勝と言わないまでも、せめて山県有朋がいてくれたら」と何度でも思うのです。
1868年に時計の針を戻します。1月の鳥羽伏見の戦いで、数で優っても何もかも旧弊な幕府軍は、西洋式に訓練され最新式の火器で装備した新政府軍にあっけなく敗れます。結果として、西郷が率いる新政府軍は大いに士気が上がり「慶喜を切腹させ、徳川を潰そう」と江戸に向かって北上。江戸に逃げ帰った慶喜は謹慎。善後策を任された勝は徳川家を守り、江戸を新政府軍に蹂躙させないよう、新政府軍の総攻撃に対して火消しや博徒を使う「江戸焦土作戦」をちらつかせます。新政府軍は3月15日を江戸総攻撃の日と定めていました。また、ロシア、米国、英国、フランスなど諸外国は、日本がどう転ぶのか、植民地にしてうまい汁が吸えると、まるでハゲタカ。
さて、西郷と勝の二人は13日に薩摩藩下屋敷、14日に同蔵屋敷で丁丁発止の交渉を始めます。攻める西郷側の「江戸総攻撃」、迎える勝側の「江戸を焦土に」が二人にとっての選択。しかし、双方の選択から、「江戸焦土で、120万人の武士・町民に死の危険。内戦で疲弊した日本は諸外国の植民地」という最悪の結果が予想されます。西郷が「総攻撃を中止」、勝が「江戸を焼き払わない」という賢い選択に切り替えるにはどうするか。本当は二人とも、この賢い選択を採りたいのです。でも周りはこの賢い選択を絶対に許しません。ここで勝が先手を打ちます。世界最強英国のパークス公使に「俺の号令で江戸中に火をかけたら、お前さんら当分貿易などできないよ」と耳打ち。驚いたパークスは、西郷たちに早速圧力。これで西郷には「英国からの外圧だから、どうしようもない」と新政府軍を説得する口実ができます。良い意味でも悪い意味でも、いつの時代も外圧が日本の明日を決定します。パークスの他、ペリー然り、マッカーサー然り、日米貿易戦争然り、今の円安も日本を変えるチャンス。
そして無血開城直前の4月9日、10日に新政府軍の拠点「池上本門寺」で武器・軍艦の引き渡し交渉が行われます。お互いの信頼に基づいた二大役者だからこそ実現した「奇跡の」交渉劇でした。本営がある池上本門寺への道すがら、洗足池を気に入った勝は「洗足軒」という別荘を建て、お墓をここにと遺言します。勝は生前から毀誉褒貶が絶えませんでしたが、それに動揺もせず堂々と自らの生き方を貫きました。カオスの世界に突入した現在だからこそ、他人の評価に右顧左眄しない堂々とした日本人を育てる教育の大切さを思いました。これこそ日本が生き延びる最善策なのです。
コロナ禍で書き始めたコラム「会長談話室」は、対面の行事が可能になりましたのでひとまず閉じたいと思います。皆様からの励ましとご笑覧に深く感謝いたします。

足でこぐ白鳥型ボートを楽しんでいる家族連れ達。風光明媚な早春の洗足池のほとり。春の息吹に木々は萌えだしていた。

気品と歴史を併せ持つ世界を代表する名城、江戸城(現皇居)が内堀に映える。徳川幕府から始まり、現在もなお日本の象徴的空間として存在する。

当フォーラムでお世話になる議員さん達。後ろの2010年に寄贈した「仙台紅枝垂れ桜」は寒い日が続き、まだ開花していなかった。

江戸城無血開城に向けて最終合意をしたと言われている薩摩藩 蔵屋敷址。この蔵屋敷は日本橋と京都をつなぐ東海道に面している。
その44 (2024年5月1日)
小田原北条5代百年の栄耀栄華が秀吉によって儚く消えると、秀吉の牙は家康に向けられます。父祖伝来の三河を中心とした領地から、関八州に転封を命じられた家康の胸中は・・・。1590年、彼は意外にも東都の小田原でも鎌倉でもなく、荒涼殺伐とした沼地広がる鄙の江戸を選択します。
しかし、江戸には水の大問題が二つありました。一つは雨水を貯めこまない泥質の関東ローム層ですから、ひとたび大雨になると江戸の地は水浸し。治水対策が必要でした。もう一つ、この地域は大きな湖沼のない台地と、城内にも塩水が流れ込む低地だけですから、万年飲料水不足。利水対策が必要でした。幕府の威光に比例して、江戸の人口は増えるばかり。まさしく「江戸の水をどうする家康」でした。
鷹狩が趣味の家康。三鷹付近で古来有名な「七井の池」(後に井の頭池と命名)から流れる平川(神田川)を中心に、善福寺川と妙正寺川を途中で合流させ、さらに玉川上水の助水を淀橋で併せて関口大洗堰に集めます。この堰で左右に分水し、左側を神田上水として江戸市中に給水。江戸に居を構えた松尾桃青(芭蕉)も、日々の糧を得るため分水工事の職に就きます。上水は水戸藩上屋敷の庭(小石川後楽園)にも流れ、右側の余水は江戸川(後に神田川に呼称統一)として流しました。水戸藩は、光圀(水戸黄門)と最後の将軍一橋慶喜を出した御三家の一つ。井の頭池に発する「神田川」は、徳川幕府の始まりと終わりを繋いでいました。
さて、神田川を語る時、山県有朋のことも避けて通れません。彼は40歳の1878年、早稲田の大隈重信邸を睥睨する台地に、庭園が見事な「椿山荘」、功成り名遂げた65歳に神田上水を引いて「新々(さらさら)亭」を造ります。「陽の大隈と陰の山県」とでは、国民の人気も雲泥の差。1922年1月の日比谷公園で行われた大隈の国民葬参列者30万人、ひと月遅れの山県の国葬参列者は千人にも満たない。でも、「人気と実力は必ずしも比例するものではない」と、古今東西の歴史が教えてくれます。椿山荘は早々売却され、今は都内有数のホテル。新々亭は跡かたもなく消え失せます。
季節外れの寒さで桜の開花が少し遅かったのが幸いし、訪れた日はちょうど桜が満開。井の頭池は老若男女の花見客でごった返していました。家康はこの大池と美味な湧き水に感激し、「これで江戸市中に水を配給できる」と安心。京王井の頭公園駅近くの取水口から神田川が続きます。
南こうせつとかぐや姫が唄う『神田川』は、早稲田の地で生まれた昭和を代表する名曲。「何も怖いものはなかった」と青春を謳歌しても、それは長くは続きません。「若かったあの頃」を切り取った甘く切ない曲だから、ぴったり国民の琴線に触れました。後に俳聖と呼ばれる芭蕉もまだ駆け出しなのに、背伸びして一等地日本橋に住み、「たな賃の 高き軒端に 春も来て」の句を詠みます。この句は、江戸時代の『神田川』ではないでしょうか。春真っ盛りの「神田川」は、江戸と現代の若者文化も繋いでいるのです。

東京ドームを借景にした小石川後楽園に流れる神田上水と早春の息吹が感じられる庭園。水戸藩は徳川幕府が抱える時限爆弾だった。井伊直弼暗殺から次々に破裂し、幕府の滅亡につながる。

井の頭池の南東端、石造りの水門橋辺りから始まる神田川は、江戸、明治、昭和というそれぞれの時代をもっともよく映した川の一つ。玉川上水と神田上水は江戸の人々の生業と生活を支えた。

椿山荘は結婚式場として都内有数のホテル。有朋は、軍人だが造園家や歌人としての才能がひかる。「さらさらと 木がつたひゆく ゆく水の 流れの末に 魚の飛ぶみゆ」と詠み「新々亭」を水道町に。

『神田川』の作詞が生まれるきっかけとなった小滝橋からの桜と神田川。「無鉄砲」は若さの特権。「武士を捨て俳諧師、そして出家」と、妻子と波乱の人生を漕ぎだす松尾芭蕉にも共通していた。
その43 (2024年4月1日)
日本のGDP(家計、企業、政府の国内での経済活動の総額)は2010年に中国に抜かれ、昨年にはドイツに抜かれ4位に転落しました。米国に次いで第2位になり、「ライジング・サン」と世界で一目置かれる存在になる1968年頃と比較し、隔世の感があります。
「軽武装経済強国」路線を吉田茂が選択し、それを池田勇人が「所得倍増計画」に具体化して見せます。こうして「大都会に期待と一抹の不安」を胸に秘めた地方の次男・三男坊を乗せた「集団就職列車」が、製造業の集積する太平洋ベルト地帯に向かう時代が到来します。東京の人口増加数は1960年代前半で年平均33万人強、後半は23万人。1年で一つの特別区が新しく生まれるのと同じですから、当然住宅不足が深刻化し、そのために1955年に日本住宅公団が、75年に宅地開発公団が設立されます。後に両公団は統合し、さらに2004年に都市再生機構(UR)という「日本最大の大家さん」に生まれ変わります。
1959年に日本住宅公団が保谷町・田無町・久留米町にまたがる34haに造成した「ひばりが丘団地」は、千里ニュータウンや多摩ニュータウンの先輩格です。公団は、「農村の魅力(健康的な自然環境)と、都市の魅力(最先端の科学技術)の結婚」で、快適な郊外生活をデザインした英国のエベネザー・ハワードの「田園都市」を手本にしたのです。
運動施設・行政出張所・学校・緑地公園・スーパー誘致などで生活に必要な複合施設を備えた先進的な団地の誕生でした。そこに暮らす「団地族」とは、「年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるサラリーマン」と1960年の『国民生活白書』に書かれています。電化製品を取り揃え、パン食・イスに代表される新ライフスタイルは庶民には「憧れの存在」。
さて、保谷町・田無町はそれぞれ時を置かず市になります。どちらも小さくいびつな形なので、早くから合併話がありました。「究極の行財政改革」と合併を位置づけ、2001年に西東京市に。都心への近さから、合併前の2000年の2市の人口17.7万人が20年には20.6万人に増加しています。
明日の天気予報をライトの色で知らせるスカイタワー西東京は高さ195m。新青梅街道沿いにあります。タワーを右手に街道を北上すると、東久留米市と西東京市にまたがるひばりが丘団地。すっかりリニューアルしていましたが、往時の面影を探してさまよった先に、「ありました!」十字型中層住宅「スターハウス」。近くの「お山の公園」の広場では、寒さなんか平気な園児たちが元気に遊んでいます。松林の中に何列も並んでいたモダンな2階建ての「テラスハウス」が、現在はコーヒーハウスの「ひばりテラス118」だけ。
若い世代を呼び込もうと、URが自らの存亡をかけてリニューアルした成果でしょうか。人だけではなく建物も「老いるニュータウン」をリニューアルするには、適切な規模と地の利とが条件です。老いる多摩ニュータウンばかりでなく、日本の将来がとても気になります。

本願寺別院の境内から仰ぎ見るスカイタワー西東京。夜間は紫、緑、青にライトアップ(順に晴れ、曇り、雨)され、「天気予報タワー」と地元では人気。

中層4階建ての「スターハウス」は、外観は往時のままだが内装を整えて管理事務所に。その前のオープンスペースのお山で元気に遊ぶ園児たちをやさしく見守っている。

すっかりリニューアルされてよみがえったURの「ひばりが丘パークヒルズ」の中高層住宅と春を告げる満開の桜が周辺にいろどりを添える。

こ洒落たコーヒ ーハウスにリニューアルされた2階建てテラスハウス(二軒続きのタウンハウスはE.ハワードのお気に入り)。美味しいコーヒーと素敵な時間を提供してくれそう。
その42 (2024年3月1日)
「武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へ行けば必ず其処に見るべく、聴くべく、感ずべき」ものがあるという有名な一節は、国木田独歩の『武蔵野』(1898年)にあります。この国民的作家は、1908年6月友人たちに惜しまれながら、あまりにも若い37歳で波乱万丈の生涯を閉じます。肺結核でした。
ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』(1997年)で、都市の誕生が空気感染する結核などの「病原菌にとって素晴らしい幸運をもたらした」と。欧米白人に比較し日本人は結核菌への抵抗力が弱く、特効薬もない戦前、若者の罹患率が高く「国民病」と呼ばれ死亡率も第1位でした。
結核病院やサナトリウムは、空気感染を恐れる住民からは当然歓迎されません。しかし、都市化と戦争で結核患者は増加する一方。清浄な空気と安価な雑木林が、青梅や清瀬にありました。候補地の双方で反対が高まりますが、最終的に清瀬に決まります。1931年結核を専門とする1万1千坪の広大な敷地を持つ東京府立清瀬病院ができ、その周りに病院やサナトリウムが集まります。俳人石田波郷が清瀬で編んだ句集『借命』も傑作ですが、多くの作家がこの地を題材にしています。
戦後は結核研究所によるBCGワクチンの開発や治療法の進化で病魔は抑制されます。不要になった跡地や周辺に、国立看護大学校、看護研修学校など医療関係の施設ができました。
予報通りの湾岸低気圧が降らせた大雪の2日後、現在も結核病床の80%を占める3施設が残る清瀬を訪ねました。あたりに残る雪が大気の汚れを落としてくれたのでしょう。静寂と真っ青な青空と清浄な空気が迎えてくれ、思わず深呼吸をしました。
この大雪をぴったり予測するには、2016年に運用を開始した気象衛星「ひまわり9号」の画像データが不可欠。文字通り、「ヒマワリはいつも日本が見えるよう」、時速11,000kmで約36,000km赤道上空を1日1回まわります。そして、地球を10分ごとに、日本付近を2.5分ごとに撮影しています。
清瀬には、気象庁気象衛星センターがあり、送られてくる画像データの受信から活用目的に沿って数値解析し、その結果を発信しています。気象衛星から送られてくる各種情報がスーパーコンピューターで処理され天気予報に利用。そして、「山火事などのピンポイントの画像」なども海外に提供します。
大気という典型的な流体は、固体(雪)、液体(雨)、気体(水蒸気)と相転移する厄介な代物。それに山岳と平野などの地形の要因も絡まる、非線形力学の世界。大気とは予測を不可能にする「無数の悪戯好きの小悪魔」がいたるところに潜む「カオスの世界」です。
下駄を放って占うのではなく、気象衛星、数学、そして何よりもコンピューターの力業が必要です。本格的な実用化は、1970年代に入ってから。今は誰もが、天気予報を信用しています。でもまだまだ小悪魔は手強く、楽観視できません。将来病理学や気象学の博士が生まれるかもと、雪で遊んでいる保育園児を見ながら手前勝手な期待を胸に清瀬を後にしました。

昔の面影を残す「清瀬病院・東京療養所」の門柱。周囲に高度医療や臨床研究・研修をする「国立病院機構・東京病院」や「結核研究所」が点在。

国立高度専門医療研究センターの看護職を養成するために、2001年に設立された国立看護大学校。

1978年静止気象衛星「ひまわり」は本格運用。気象衛星センターのシンボルともいえるタワー。
スーパーコンピューターの「数値解析予報システム」(NAPS)が天気予報を行っている。

大雪の翌日の午前中、清瀬の保育園 児たちは寒さもなんのその。懸命に友達と雪ダルマづくりに興じていた。
その41 (2024年2月1日)
家康を祀る日光東照宮を、「杉の森に置かれた聖櫃」にたとえたフランス大使ポール・クローデル(赴任期間1921-27)は、中禅寺湖畔の大使館員用ヴィラを度々訪れます。ヴィラの角部屋にある赤い机で、孤立の道を選択しようとする日本を懸念しつつ、国内情勢を分析した書簡を本国に向けて執筆。日本をこよなく愛していましたが、日本の教育には手厳しく、学生を「成長を助ける対象」と考えず、知識を詰め込む「単なる箱」と見ていると批判します。
クローデルと同様、明治末期から大正期にかけての「西洋に追いつき、追い越せ」式教育に疑問を呈し、全人教育を実現させようと「大正自由教育」運動が盛り上がります。既にふれた羽仁もと子、小原國芳、そして成蹊学園の祖中村春二が代表者です。学友の三菱総帥岩崎小弥太、銀行頭取今村繁三が彼の支援者です。岩崎が留学中のケンブリッジ大学から送った手紙の内容は、クローデルの教育批判と全く同じ。ちなみに、今村の国分寺の広大な別荘地は現在、日立中央研究所となっています。
中村は、「一人一人の個性を磨くには、少人数教育に限る」と確信し、1906年に子弟が寝食を共にして人格を陶冶する教育を目指して、本郷西片町に全寮制の私塾を開き、翌年「成蹊園」と名づけます。教育理念「自発的精神の涵養と個性の発見伸長を目指す」、は今も学園全体に立派に受け継がれています。
彼は1912年に、今村と岩崎の経済的支援と自らの私財を合算し、経済的に困窮する有為の若者のため池袋に無月謝の「成蹊実務学校」を創立します。そして14年に中学校、翌年に小学校、17年に女学校と三菱の要請を受け実業専門学校を開校します。1923年9月の関東大地震も乗り越え、岩崎と今村の尽力で1924年8万坪余の広大なキャンパスを武蔵野市吉祥寺の現在地に。しかし中村は心身の酷使で、移転後の新校舎を見ることなく46歳の若さで逝去します。常に教え子に囲まれることに無上の喜びを感じていた中村には「画家になる」夢もあり、暇があればスケッチに余念がありませんでした。成蹊学園史料館には、私にはセザンヌタッチと思われる中村の水彩画。高等教育の進学熱のたかまりの中で、1925年7年生の成蹊高等学校が開校。今日の一大総合学園の礎が築かれたのです。
現在、吉祥寺キャンパスには、小・中・高・大・大学院までの幅広い世代が学んでいます。成蹊学園の特色は「本物に触れ、体験して学ぶことで、豊かな感性を育む」、「児童・生徒・学生の世代を超えた学びの交流の中で、多様な価値観や多角的な思考力を身につけ、国際的にも通用する人格に磨き上げていく」ことでしょうか。そしてワン・キャンパスならではの一貫連携教育が実践されています。
典型的な冬空に富士山が白いキャップをかぶって秩父丹沢山系越しに悠然と佇んでいます。若干寒さが和らいだ昼下がり、JR吉祥寺駅からキャンパスに向かいました。有名な欅の並木はすっかり葉を落としていますが、その分日光が下校途中の小学生を温かく包んでいます。成蹊学園史料館の方々からの心のこもった説明と大部の『成蹊学園百年史』など持ちきれない位の資料も頂き、何か中村の志しと通じ合うものを感じました。キャンパスに隣接する瀟洒な住宅街の中に、保存されている旧制高校の寄宿舎として使われていた米国様式の一軒家を写真に収め、満たされた気持ちで帰路につきました。

文化人大使ポール・クローデルが好んだフランス大使館ヴィラ。初秋の中禅寺湖が窓越しに見える東南端の部屋には愛用の赤い机。

小春日和のある日、武蔵野の一角を占める広大なキャンパスの正面にレンガ造りの学園本館。

成蹊学園の祖中村春二が描いた成蹊実務学校全景図。少年時代を懐かしんで描いた帝大在学中の絵。下の写真は今村繁三と岩崎小弥太。

米国風の1924年旧制高校時代の寄宿舎「有定寮」。極めて貴重な建物で、現在は国登録有形文化財で「濱家住宅西洋館」という。
その40 (2024年1月4日)
町田を語る時、欠かせないテーマは玉川学園と白洲次郎です。町田を縦断する小田急線には、成城学園前駅と玉川学園前駅があります。成城学園は今では高級住宅地の代名詞ですが、その成城学園の校長をしていた小原國芳は、1929年町田の地に新たに玉川学園を創立します。東京ディズニーランドの1.2倍という広大な敷地には幼稚部、小学部、中学部、高等部、大学、大学院があります。玉川学園は知育と徳育を兼ね備えるための「全人教育」をモットーに、「真・善・美・聖・健・富」の価値を時代の変化に対応させながら伝統ある教育理念としてさらに磨きをかけて、「教育と言えば玉川」の高い評価が「一貫教育(K-12:Kindergarten to 12th)」を土台に確立されています。
敗戦からすぐ、GHQは教育の民主化を急ぎます。大正デモクラシーを沈黙させたのは軍部だけではなく、国民も同列。その根っこに教育の問題があったと見たのです。GHQの民間情報教育局(CIE)の要請を受けて結成された米国教育使節団は、全国各地の模範となる学校を1ヶ月かけて調査し、『米国教育使節団報告書』を提出します。その中に、1946年3月26日に玉川学園参観とあります。この報告書を受けて、教育基本法など戦後教育の理念や枠組みが順次整えられてゆきます。
冬のある日、玉川学園を訪れ、教学部の光森多佳子さんたちにキャンパスを校用車で案内していただきました。高いヤシの木が南国情緒を引き立たせるコロニアル風の小学校の建物。米国東部の大学校舎と同じ様式の校舎がそれぞれ「**Hall」と命名され配置されています。教育博物館や小原記念館(創設者の住居を改装した展示・見学施設)を案内されましたが、「新しい日本の子どもたちを自分の手で」という強烈な個性と使命感がまだ漂っているのではないかと、思わず錯覚してしまいました。
そして白洲次郎です。彼は神戸の実業家の息子。当時の御曹司の例にもれず、ニュートンも学んだケンブリッジ大学に進学。そこで独立精神と「プリンシプル」(原理・原則)重視を叩き込まれ、国家の一大事に領地からはせ参じる「カントリー・ジェントルマン」となって帰国します。
軍部の横暴に「やってられない。負け戦だ。東京は焼け野原で食料も枯渇」と踏んだ白洲は、1941年に現在の町田市鶴川に。古い農家を不愛想な彼にちなんで「武相荘」として改築し、農作業に勤しみます。敗戦後、外相吉田茂は白洲をGHQの連絡役に引っ張り出します。GHQの横暴に腹を立て、美辞麗句のお追従ばかりの政治家・官僚を訥弁で怒鳴りつけます。その真骨頂はサンフランシスコ講和条約。白洲は外務省と米国とで作成された英文の演説草稿を破棄し、日本語に作り直させます。吉田もまた役者。会場のオペラハウスの壇上で、「どうせ誰も分からない」と30mに及ぶ巻紙の日本語原稿を読み飛ばし演説。こうして日本は独立したのです。この凸凹コンビを持った日本はラッキーでした。
日本という国は、小さなエンジン付きの帆船に例えられます。このエンジンでは独力で大海に漕ぎ出すには馬力不足、でもうまく帆で風をとらえた時、海洋で大きな船を追い越すのです。黒船もGHQも一種の風。時の船長は吉田茂で、その傍らにいつも白洲がいました。彼らは大海原から吹いてくる風を上手く帆に受け、経済大国の道筋を走り出します。町田は強烈な個性を持った小原國芳と白洲次郎の二大傑物を擁したのです。ちなみに白洲の子どもたちにも玉川学園卒業生が。白洲は学園で「プリンシプル」について講演を行っています。

3本のクリスマスツリーが飾られた大学教育棟2014前。ハーバード大学など米国東部アイビーリーグのキャンパスを思わせる。

太陽の恵みがいっぱいのサンテラスが教室を囲う、開放的な小学1年生から5年生までが学ぶ校舎。コロニアル様式の建物には、花壇やビオトープ、そしてヤシの木がよく似合う。

白壁がまぶしい「武相荘」長屋門の左側には、白洲次郎が中学生時代に乗り回した米国車ペイジ・グレンブルックを格納したガレージ。彼が過ごした神戸時代は白洲家の黄金時代だった。

茅葺の屋根が風格を添 える母屋。玉川学園OGの白洲の娘さんたちが経営するカフェが右側に見える。母屋の奥は小高い丘になっていて、多摩丘陵の面影が偲べる。
その39 (2023年12月1日)
多摩地域は全国有数の学園都市で、キャンパスは70近くにのぼります。しかし少子化でキャンパスの縮小・閉鎖や都心回帰も本格化しています。その象徴が「聖書」「国際」「園芸」を正課に質の高い教育で評価の高い「恵泉女学園大学」(1986年多摩市に開学)。残念ながら2023年で学生募集停止します。恵泉女学園はキリスト教の精神をもとにした「女子のための私立学校」として、河合道が1929年新宿区牛込神楽町に創立した伝統ある私学。その恵泉女学園は「自由学園」とともに、GHQの民間情報教育局(CIE)の内部文書で、「最も優れた女学校」と評価されました。双方ともキリスト教の精神に基づく学園です。
「自由学園」は、八戸出身の羽仁もと子と経営感覚に優れた夫吉一が旧雑司ヶ谷(西池袋)の地に1921年創立されます。「教育を詰め込みから解放したい」という熱い思いで誕生した自由学園は、かつて私の上司で、国際派の故犬伏茂之氏が学んだユニークな学園です。彼は流ちょうな英会話と幅広いネットワークで、私の海外活動をいつも助けてくれました。計算機のメカニズムを解説する『わが友石頭計算機』という素晴らしい絵本を安野光雅画伯と作り、DX時代を真に予見した傑物でした。
「自由学園」は現在東久留米市にあります。1925年武蔵野鉄道(現西武池袋線)沿線久留米村に羽仁夫妻は、土地を10万坪購入し、「学園町」と名づけた7万坪の宅地を分譲した資金で、武蔵野の自然の懐に抱かれる3万坪に理想的なキャンパスを作ります。「平成の名水百選」に選ばれる南沢湧水群を源流とする立野川がキャンパス内を流れています。
立冬を過ぎた晴れの日、学園OGでもある事務長の赤木博子さんがキャンパスを案内してくれました。神から与えられたがゆえに誰も犯すことができない「自由」と、ウェルビーイングと同義の「生活」をキーワードとするアカデミアです。味もそっけもない詰め込み教育を排し、今求められている食育・環境教育・実践教育の理念が、すでに創立当初からあったのに驚きです。
時代を経たアカマツやメタセコイヤが、起伏のある武蔵野の面影を残した雑木林に映えるキャンパス。広い芝生に浮かぶ女子部の建物を中心に、帝国ホテル旧館の設計で有名なフランク・ロイド・ライトの高弟遠藤新たちが設計した校舎群が幾何学的美しさを保っています。温かみのある大谷石がいたるところに使われ、帝国ホテル旧館の趣を彷彿とさせます。ちなみにライト自身が設計した校舎、「自由学園明日館」は今も見学者が絶えません。
幼稚園から大学部生まで含めて808人の極めて小規模の一貫教育の学園で、「手塩にかけた教育」が実践されています。男子と女子に分かれる中等科と高等科は、2024年「共学化」します。この自由学園という100年以上の伝統に輝く貴重な「ミクロアカデミア」にもっと世間は注目し、もっと持続可能性に手を貸すべき時かもしれません。

緑に染まった大芝生の向こうに、ライト風の垂直窓の「女子部食堂」と校舎。立派な松と欅が見事に生える。

女子部食堂の内部。木材をふんだんに使ったシンメトリーを基調とした建築デザインが学園生の美的感覚を自然に研ぎ澄ます。

炊事室で自分たちが頂く昼食を、慣れた手つきで準備する学園生たち。「生活(ウェルビーイング)」の教育を重視する自由学園の素晴らしい伝統の一つ。

青空に映えるフランク・ロイド・ライトが設計した「自由学園明日館」。池袋文化の象徴でもある。池袋駅近くの高層ビル 群が見える。
その38 (2023年11月1日)
1889年、かつて天領であった廻り田村、野口村、久米川村、南秋津村、大岱村の5村は合併し「東村山村」になりました。そして1964年に「東村山市」になります。
「村山」の名前は、平安時代からこの周辺を支配していた「村山党」にちなんでいます。この一党の末裔は鎌倉時代に畠山重忠、さらに鎌倉幕府打倒をめざす新田義貞、そして豊臣秀吉によって滅んだ小田原北条一族の氏照につかえます。府中や鎌倉を貫く「東山道」、「鎌倉街道」が通るこの一帯の地名、入間市の金子、宮寺、川越市の仙波、所沢市の山口などに居館の名残があります。武蔵村山、東大和もこの一党の支配地でした。
東村山の道路は狭い上に曲がりくねり、自動車での移動に苦労します。「電車の駅がいくつもありますから、ここの人たちは車で移動する必要を感じなかったから」と東村山ふるさと歴史館の鈴木貴之さんは苦笑しながら解説してくれました。確かに西武国分寺線、西武多摩湖線、西武新宿線、西武西武園線、西武山口線が走りますし、北東方向に向かってJR武蔵野線が走り、西武池袋線が清瀬側の隅っこを通ります。
多摩湖に向かっていくつもの路線が伸びているのはなぜでしょうか。所沢市にある遊園地と競輪場といった娯楽施設へ都心からのアクセスを容易にして、貴族のような楽しみを「庶民にも提供したい」という西武王国の総帥堤康次郎の願いと無関係ではありません。(旧)西武鉄道と堤が経営する武蔵野鉄道、そして食糧増産の3社を1945年に合併させ、今日の「西武鉄道」にまとめ上げます。
康次郎は息子たち清二と義明を使い、永遠のライバル東急総帥の五島慶太とその息子昇とのデパート戦争(東急の金城湯池渋谷に、西武百貨店、パルコオープン)、リゾート開発では「伊豆箱根戦争」を繰り広げます。苗場スキー場やプリンスホテル、西武ライオンズ、そして西武百貨店池袋本店やパルコと、息子たちは、「競い合いながら」王国を築いてゆきます。この一直線のビジネス成長モデルでは東急側も負けていません。しかし、両社とも早々と創業家の手を離れることになります。東急は昇の死後に後継者をめぐってひと騒動。西武は有価証券の虚偽報告で義明の逮捕と退場、バブル崩壊による清二の金融破綻です。池袋から「文化を発信」していた西武本店は、後にセブン&アイ・ホールディングスに買収された挙句、今度は地元の反対空しく外資に転売される憂き目にあっています。
秋晴れの一日、多摩湖を一望できる西武が経営する掬水亭から遊園地に向かいました。平日なので客はまばら。丘の上にレトロな映画看板と植木等の歌謡曲が「西武全盛時代」を偲ぶようにこだましています。そこからかつて「村山ホテル」があった場所を予想して多摩湖駅のほうに向かったのですが、見つかりませんでした。大岡昇平の『武蔵野夫人』で、道子と勉が嵐を避けて一夜を過ごしたホテルです。道子の死は、武蔵野の面影が都市化によって失われる隠喩でした。西武山口線のターミナルの先にある西武ライオンズの活躍で沸いたドーム型球場は西武ではなく、ワインの通販ビジネスで有名なベルーナの社名がついています。ドームには牙をむく白いライオンの彫塑が。立身出世の権化、堤康次郎の意地と嘆きを象徴しているようです。栄枯盛衰は世の常。しかし夜空に輝きをもって舞う一本の彗星のように、あまりにも短い興亡であったと思います。

東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ案内軌条式鉄道(AGT)は「レオライナー」の愛称。往年の西武ライオンズファンの思い出が詰まっています。

西武線を走った引退車両と大観覧車。遊園地はレトロな雰囲気が辺り一帯を支配しています。それと、入園者が少ないのが気になります。

かつては「西武ドーム」と呼ばれ、全盛期の西武ライオンズの選手たちが優勝をかけて戦っていた白銀色のドーム型球場は「ベルーナドーム」に改名しました。

堤康次郎をほうふつとさせる「レオ」の彫塑。西武王国の興亡を体現しているような寂寥感を抱かせる。
余りにも強い光を発してすい星のごとく消えてしまいました。
その37 (2023年10月2日)
多摩都市モノレールを多摩センターで乗ってから、東大和の終点上北台まで40分弱で着きます。多摩丘陵と狭山丘陵を南北でつなぐ路線は全長16㎞の「空の散歩道」。東西の尾根を約43キロでつなぐ玉川上水と対をなします。このモノレールは、「三多摩格差」解消を悲願とする当時の青木立川市長を始め、多摩の首長さんの「連携の結晶」なのです。彼らの知恵と努力は、松平信綱と安松金右衛門コンビの知恵と努力に匹敵します。
上北台の駅に降り立つと狭山丘陵が緑の小高い壁となっています。その壁の尾根をつたって下り坂の途中にある「東大和市立郷土博物館」に梶原喜世子さんと池田昌司さんを訪ねたのは、「多摩湖」の歴史をお聞きしたかったからです。
東大和の地は丘陵や台地が大部分ですから、水が乏しく水田は小規模。麦や芋そして桑や茶の栽培を生業とした貧しい暮らしを強いられていました。そこに「貯水池」建設の話が持ちあがります。
大都市東京に集まってくる人口に水を供給するには、玉川上水だけでは心もとないと感じていた明治政府は、1886年に横浜から広まったコレラのパンデミックを機に対策を練ります。玉川上水の水を淀橋浄水場に貯め沈殿ろ過した上で、鉄管で各所に配水する応急処置。しかし、途中で水が蒸発、地中浸透、そして汚染が起こり、十分な水の供給ができません。その上、人口が加速的に増加しますから断水が日常茶飯事になりました。
困り果てた東京市は内務省に依頼し、中島鋭治博士に白羽の矢。彼を中心とする委員会は、東京市民200万人×100日分の水量を多摩川から大きな貯水池に貯めこみ、浄水場に恒常的に水を供給するというアイディアを提案します。こうして、地形と工費を勘案して「村山貯水池」案が選択されます。
用地買収で現金、ダム建設で人足の日当。これに村人は狂喜し「貯水池バブル」が発生します。バブルははじけるまでが宴で、はじけた後は脱力感と後悔。いつの世も同じ。この地のバブルは初期の段階で急速にしぼみ、土地の人たちの怒りに火がつきます。提示された買収金額があまりにも低かったからです。
やがて建設反対運動も沈潜し、貯水池建設は進んでいきます。狭山丘陵の地形を利用したアースダム形式の人口湖は、上下二つの「村山貯水池」(多摩湖)と命名。多摩川の水は小作と羽村の両取水堰から貯水池に誘導されます。上貯水池の完成は1924年、下貯水池の完成は1927年です。
やがて敗戦。日本には平和と高度経済成長が訪れます。1978年には日本初の女子マラソン大会が開催され、49名が参加し、沿道には10万人もの観衆がつめかけます。湖畔の「水の精」はその証言者。
多摩湖には大正モダンな取水塔が水面に映えています。湖畔にドーム型野球場と遊園地の大観覧車。西武グループの輝きと凋落のシンボルかもしれません。芥川賞作家清岡卓行の詩の一節「去年の暗い夏 近くの町に移り住んでから/いつ来ても湖は ひどく渇きかかっていた。/・・・/貯水のための古い人造湖の手つかずの静謐/・・・/堤防の上を歩きながら 暮れのこる町を望めば/緑の大群のなかに まばらな家家は溺れ/・・・」を思い出しながら、乾ききった夏の午後の堤防を私も歩いていました。

第1取水塔(1925年完成)と第2取水塔(1973年完成)渇き切った多摩湖。

元気な子どもたちが遊び、時折ウォーキングに汗を流す老人たちが通る堤防は、2009年に強化工事が施された。

多摩湖の向こうに緑が映えるドーム型野球場。埼玉西武ライオンズのホームグラウンド。

「女子マラソンの聖地」にたつ「水の精」像。ジェンダーフリーの世界を目指して。
その36 (2023年9月1日)
新座市にある「平林寺」の境内は鬱蒼とした木々に包まれています。境内を玉川上水から取水された「野火止用水」が流れています。武蔵野の雰囲気を何代にもわたって遺してきた意志と努力が境内の至る所に漂っているようです。境内の奥には、幕閣として敏腕を振るった藩祖松平信綱をはじめ、大河内松平家の広大な墓所。そして一番奥まったところに用水の名前にも使われる古代から続く焼畑や山火事を制御する「野火止塚」もあります。
さて、「知恵伊豆」と呼ばれた信綱は松平姓ではありますが、徳川の血筋を引いているわけではありません。先祖は平安末期に三河に土着し大河内と称していました。信綱は、家康の江戸移封に従った祖父秀剛が移り住んだ武蔵高麗郡に生まれました。ですから多摩・武蔵との縁は実に深いのです。
おのれの才能を発揮したい一念で、叔父正綱の養子になり「松平姓」を名乗ります。といっても、その叔父も「長沢松平家」の養子として徳川家康の側近に取り立てられましたから、信綱は養子のまた養子。でも、家康も秀忠もそして信綱が心底から仕えた三代将軍家光も、幕府を早く盤石にしたいという一心でまつりごとに当たりますから、各地各所から俊才を集め、変則的な縁組も許したりする空気がありました。
信綱はその才覚で「天草・島原の乱」を鎮圧し、急激な人口増の江戸にとって悩みの種だった「飲料水」の確保を目的とした「玉川上水」の開削にも成功します。伊奈忠治の工事が失敗した後、信綱は部下の安松金右衛門に命じて通水に成功させ、江戸市中の水の確保が実現しました。数々の手柄で幕閣で活躍するのです。川越領内の農地を拡大させるため、1655年に幕府に許可を願い出た上で、金右衛門に「野火止用水」開削を命じます。「水喰らい土」、「逃げ水の里」とよばれた荒涼とした多摩・武蔵の原野は、永らく人が住むことを拒絶していました。水が十分でなければ、作物もだめ、人も住めません。
1657年、玉川上水から引かれた「小川用水」のおかげで、多摩郡小川村(現小平市)に新たな開墾地が生まれました。古地図で見ますと、玉川上水と野火止用水に挟まれた「舟形」の雑木林も含め、開墾が完了した1733年には672石、394haの新たな農地です。これらは、他所から流入した百姓や二、三男等に短冊形に区割りして配分されました。「小川用水」を張り巡らしたことで、畑作物の栽培が活発になり、村民の暮らしが成り立つようになりました。
しかし、今の小平にその面影はありません。短冊形の屋敷や畑は、戦後東京郊外をおそった「都市化の大波」で、大半の農家はアパートや店舗等の不動産賃貸で潤います。専業農家は激減し、現在は高齢化がそれに追い打ちをかけます。兼業でも農家を続けたいという農家は、形ばかりの農地を税優遇の「生産緑地」として残しています。小平市内は平たんでも台地が続きますから水田には適しません。新鮮な自家製野菜や果物をビニールハウスの軒先やJAが設けた直販所で販売しています。「小平の農業は元気」という看板や「花小金井」という駅(小平市)のロータリーに、「ブルーベリー栽培発祥の地」の標柱があり、旺盛な発信力に思わず脱帽しました。

水の乏しい古代、山火事や焼畑の火をコントロール
するために築いた小山(塚)「野火止塚」が各所にあった。
この塚から「野火止用水」の呼び名が採用されたらしい。

現在も滔滔と流れる「野火止用水」(小平市)。
立川市にある小平監視所のところから、高度処理水が引水されている。

大河内松平家の菩提寺「平林寺」の格式を象徴する
山門(新座市)。境内の雑木林は鬱蒼とし、国の天然記念物。
山門の左側の水路は「野火止用水」を引いたもの。

小平市なのに「花小金井駅」(西武新宿線)。
東京農工大教授の提唱で始まったブルーベリー栽培。駅のロータリーにその発祥の地を誇る標柱。
その35 (2023年8月1日)
1961年に残堀川に沿って最新のテストコースを備えた村山工場が操業を開始しました。ここでグロリア、スカイラインなどプリンス自動車で日本の名車が次々に製造されました。60-70年代といえば日本経済はまだ青春時代。時代を彩ったのは「ケンとメリーの愛の日産スカイライン」。助手席に彼女を乗せて西湘バイパスを大磯ロングビーチから伊豆へ向けて疾走するのが、当時の若者の夢でした。
スカイラインは、プリンス自動車が製造したスポーツカータイプのセダンです。プリンス自動車は、旧立川飛行機(現立飛)と旧中島飛行機(現富士重工)の航空技術者が電気自動車(EV)を製造しようと設立した技術優先の会社。ですから先端技術が惜しげもなく埋め込まれたスカイラインに、皇太子(プリンス)時代の上皇様を始め、愛好者はその魅力に圧倒されます。
しかし1966年に日産との合併で社名は消滅します。吸収先の日産の歴史は「権力闘争の歴史」。技術と経営に強い鮎川義介が「日産自動車」を設立します。彼の辣腕ぶりに目をつけた軍部の誘いに乗り、鮎川は満州経営を本格化。敗戦とともに日産コンツェルンはGHQにより解体。鮎川もA級戦犯として収監。鮎川を失った日産自動車には学閥・官僚主義がはびこり、業績低迷。そこにオルグにたけた「労働貴族」が跳梁跋扈します。一生懸命に車を作り、販売する現場を軽視し、日産は労使とも権力闘争にうつつを抜かします。
そんなこんなで1998年には資金がひっ迫し、倒産の危機に直面。1999年、日産にルノーが救済資金と一人の男を投入します。レバノン国籍のカルロス・ゴーン。彼はフランスきっての名門校を優秀な成績で卒業しますが、コネ社会のフランスでは「アウトサイダー」。失踪した犯罪者の父親のこともあり、幼い頃から心の闇を秘め「お金と出世以外、興味なし」。欧州での対労組の腕を買われ、ルノーの幹部に大抜擢されます。欧州と同じ手法で日本の商慣行も温情も切り捨て日産をV字回復。しかし裏で法外な報酬を要求し、税逃れにも手を染めます。
「Mr.コストカッター」として獲得した世界的名声の裏で、日産のルノー統合を画策します。これが日産のナショナリズムに火をつけます。内部告発を受け、東京地検特捜部は日産との司法取引を経て、2018年11月19日、夕暮れの羽田に着陸したプライベートジェット機内でゴーンの身柄拘束。希代のアウトサイダーは日仏両政府から「トカゲの尻尾」として切られます。しかし関西国際空港からスパイ映画さながらの逃亡劇に世界はあっけにとられます。ドラマはまだ終わっていません。ゴーンは現在、レバノンから日産とその旧幹部を名誉棄損で訴えています。
ゴーンによって2001年から非情にも閉鎖してゆくその村山工場の跡地140haの西側を残堀川が流れています。「青天の霹靂でした」と、日産側からの予告なしの通達にたじろぐ入庁したばかりの若手も、現在は部長職の大ベテラン。跡地にできたショッピングセンターと市民病院は市民の生活をしっかり守ります。交通機関をもっぱら車に頼るしかなかった武蔵村山に、八高線につながるモノレール延伸計画が具体化。
事件の後遺症で日産はEV車の国際競争に後塵を拝しています。玉川上水の開削前の多摩の開拓は残堀川の流域から始まりました。パイオニアたる先祖代々の血と汗がそこに染みついた武蔵村山の地は日産との縁を振り切って前に進もうとしています。

草原の一本道を疾走するスカイライン

フランス革命で生まれた理工系名門校エコール・ポリテク
ニークをカルロス・ゴーンは優秀な成績で卒業。
(画像引用元:※参照)

生活インフラである郊外型SCの典型「イオンモール」の駐車場。郊外生活は、どこも車依存。

日本の自動車産業の黎明期を先導したプリンス自動車を記念した『プリンスの丘』。
「兵どもの夢のあと」を夏草が覆う。
※:ウィキペディア「パリ工科大学」[最終閲覧日:2023年7月11日]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%91%E3%83%AA%E5%B7%A5%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
その34 (2023年7月3日)
「帳場で厳重に鍵を管理していた米蔵の扉は開けっ放しで中はもう空っぽ」。津軽の新興大地主で、貴族院議員のポストを手にできた夫の実家の没落を冷静に見つめ、「次は無用の長物と化したこの屋敷の処分だろう」と、地質学者の父を持つ太宰治の二番目の妻は正確に予測します。その冷徹な目が流行作家になった「元祖ダメ男」太宰治にも向けられます。「世間に女房が財布を握っているように書いているが、全く反対。原稿料を持ち出しては浮ついた生き方をする人だから私が重石にならなくては」と『回想の太宰治』(津島美知子著 講談社文芸文庫)で決意を述べます。蜷川実花が監督した極彩色の映画『人間失格 太宰治と3人の女たち』(小栗旬主演 2019年)で、宮沢りえ演じる女房そのものです。美知子の産んだ娘たちは代議士の妻園子と外国にも評価の高い作家の津島裕子(本名は里子、肺がんで2016年死去)です。GHQの指揮下で、敗戦後の日本は小作農による革命の芽をつぶすため農地解放(1947年)。地主階級を生贄にして自作農を誕生させます。もう一つの階級も生贄にされます。維新政府が中央集権体制のために1869年に藩を潰し、代わりに創設した華族階級。華族の数々の特権も含めて1947年にこれも廃止されます。
太宰治の代表作の一つ『斜陽』は、華族制度が廃止され財産税が重くのしかかり没落する家が続出する敗戦期の物語です。この小説は、太宰の家の没落と彼の子を産んだ太田静子の日記をマリアージュさせた傑作。伊豆下曽我村の『雄山荘』が太宰と静子の舞台になります。映画『人間失格』では静子役は沢尻エリカ。『斜陽』では結核で亡くなる母親、南方の戦地から戻った薬物中毒の「直治」(太宰の本名は津島修治。若き日の自分を投影しています)と、彼が慕う作家上原(太宰の現在が投影)が登場しますが、太宰は「貴族としての誇りだけ」ではこの世を生きられないと小説の中で直治を自死させます。勘当の身とはいえ、人一倍誇り高かった太宰にとっては、実家の没落も自死への引き金になります。しかし、静子は太宰の子種を宿し戦後を生き抜くのです。生まれた子が太田治子。やはり作家です。「ダメ男」太宰は、彼が住む三鷹で美容院を経営する山崎富栄と1948年6月13日夜半、玉川上水に身を投じます。彼女の役を、映画では二階堂ふみが体当たりで演じています。何度も心中を試み、生き恥をさらしたことで、実家から勘当された太宰。彼の墓は津軽金木にある先祖の菩提寺ではなく、三鷹禅林寺にあります。亡骸の見つかった6月19日に彼を偲んで、毎年全国からファンが集まり「桜桃忌」が営まれます。
太宰は『斜陽』で、蛇に女性の生命力を象徴させます。「人形から人間へ」。男の欲望の対象としての女性は「人形」。男の欲望を吸い取って養分にして生きてゆく女性は「人間」。男社会が望む従順な女性を描くのではなく、しっかり大地に根を下ろして体内に「蝮を飼う」くらいの図太い生命力を表出させる女性を描く太宰の筆致に脱帽。彼の小説が時を越えた生命力を持つ所以です。三鷹ガイド協会代表の小谷野芳文さんに、玉川上水に沿って太宰と富栄が入水自殺した辺りを案内いただきました。玉川上水敷地の所有権をめぐって展開された国と都との係争と太宰の故郷で産出する珍しい石との関係など、興味深いお話しを聞きながら、「富士には月見草がよく似合う」という誰もが知っているフレーズを編み出した太宰もよく来ていた富士山の見える三鷹跨線橋まで案内いただきました。

戦後文学の金字塔、太宰治『斜陽』は、
現在の「自立した女性」のたくましさや
活躍を予感させる。

太宰と富栄が入水した付近を示す生家の近くで
産出する「玉鹿石」。玉川上水の敷地から道路を
挟んだところに配置されている。

太宰治の「自画像」。彼の複雑な人格が良くあらわされている。「陰で舌出しても、うわべはいい顔で」と妻の美知子は述懐している。

太宰が富栄と一緒に入水した付近を流れる玉川上水。水量は激減しているので、当時の面影は偲べない。
その33 (2023年6月1日)
世田谷の地名は、一説では大化の改新の頃の勢多郷にちなむと言われています。この地が本格的に栄えるのは、名流足利氏の流れをくみ、南北朝時代に「奥州管領」を拝した奥州(あるいは武蔵)吉良氏が「世田谷城」を居城とした頃。江戸時代には、本家筋の三河の東条吉良家が「高家」の待遇を受けます。しかし有名な「赤穂事件」でお取りつぶし。幕府は、蒔田と名乗っていた奥州吉良氏に「吉良」の姓を継がせます。やがてこの地は彦根藩世田谷領となります。世田谷城址に近接する寺は1480年世田谷城主吉良政忠が建立した「弘徳院」が始まりですが、1659年に領主井伊直孝没後に彼の法号にちなみ「豪徳寺」と改称され今に至ります。
冷たい雨が降るある日の午後、豪徳寺へ行こうと自宅を飛び出して京王線「下高井戸駅」へ。そこから東急世田谷線に乗り換え「宮の坂駅」下車。閑静な住宅街の中を5分ほど歩いて到着した山門の先には1677年建立の仏殿。その屋根の梁には井伊家の家紋を中心にのぼり旗の紋章が左右一対で輝いています。井伊家と言えば、大河ドラマ『花の生涯』(作舟橋聖一、脚本北条誠)は彦根第15代藩主井伊直弼が主人公。直弼役に尾上松緑、他に佐田啓二、淡島千景を脇に配したNHK渾身の大作です。「五社協定体制」崩壊の種を作ったこの配役で、世は映画からテレビの時代に。
その世田谷周辺は渋谷から横浜にかけて沿線開発を積極的に進めた東急グループ総帥五島慶太が、畑作地を高級住宅地に変貌させます。彼は鉄道省を飛び出し、阪急小林一三のアイディアと渋沢栄一の「田園都市構想」を支えに、文化度の高い沿線開発を目指したのです。
私のゼミ生が第30代の駅長に就任したこともあり、久しぶりに田園調布駅を訪ねました。婚約時代に家内と田園調布のうっそうとした樹木に囲まれた宝来公園あたりをよく散歩し、栄一の四男で田園調布開発の先導役だった秀雄が、欅の大木が林立する屋敷の畑で黙々と農作業にいそしむ姿を度々みかけました。しかし由緒ある街並みも相続税で根こそぎ破壊される酷税日本。ですから、50年の経過でその面影は跡形もなく消え去っていました。
郊外と都心をつなぐ「田園都市線」の二子玉川駅は、現在多摩川にはみ出したホームが特徴です。駅北口に1969年玉川高島屋SCが進出。SCのトップランナーとして厳しい淘汰の波にも泰然としています。まさに、二子玉川駅にたくさんの人を吸引するランドマークです。
時代は進み「時間」が重視され、郊外=ベッドタウンの図式も見直されてきています。東急は駅の南側の旧遊園地跡11.2haを、新しい郊外型ライフスタイルを提案するマルチ・コンプレックスの「二子玉川ライズ」として再開発し、玉川高島屋SCとの相乗効果を狙います。低層のSC、3棟のタワーマンション、楽天の本社ビル・ホテルなど2つのオフイス棟、イベント会場にもなるオープンスペース、そして環境教育も可能なビオトープなどを配置。ウイズ・コロナ時代の現在、この再開発が「進化した郊外」の切り札になるかどうかが試されています。

徳川譜代大名の格式が感じられる豪徳寺の境内。
彦根藩井伊家の家紋「橘」とのぼり旗の紋章が仏殿を飾る。

旧田園調布駅舎と駅長さん。私のれっきとしたゼミOBです。亡き妻との婚約時代の思い出の場所でもあります。

王者の風格漂う玉川高島屋SC。
SC冬の時代になっても淘汰されはしない。

郊外の「エッジシティ」、新しいライフスタイルを提案する「二子玉川ライズ」。
楽天本社がそびえる。
その32 (2023年5月1日)
ベラスケスの『ラス・メニーナス』(1656年)は、国際的な名画でカメラのスナップ写真のような絵画の元祖。そしてカメラの発明は、印象派や抽象画が生まれる画期的な出来事でしたが、「活動写真」(映画)の道も切り開きます。さらに絹と化学の街フランス・リヨンに住むリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、1台で撮影・現像・映写ができる当時としては画期的な装置でした。
ところで邦画の黎明期を支えた「松竹蒲田撮影所」は1920年蒲田駅の近くに誕生。そこで「蒲田モダニズム」を先導した脚本家北村小松と監督小津安二郎が活躍します。映画史の金字塔『マダムと女房』(1931年)は北村の脚本で生まれますが、トーキー映画なのに周囲の雑音が録音されるため36年に撮影所は大船に移転。大船移転と原節子の登場は小津を活躍させます。『東京物語』(1953年)は確かに世界的評価が高いのですが、私は『晩春』(1949年)の原節子と三宅邦子の丁々発止が好きです。小津は役者のセリフよりローアングルで撮影される映像美がずっと重要と言い続けます。監督作品のモチーフは、「都会への憧れと、戦後を引きずる別れの寂しさ」です。それが日本中の共感を呼びました。
撮影所跡に近い大田区役所に4月13日(木)、退任間近い松原忠義区長をお訪ねしました。当フォーラムに対する数々のご支援に対するお礼のご挨拶です。23区で人口は3位、面積は一番大きな大田区。そのまちづくりと将来の方向付けをした「壮大なビジョン」をご説明下さいました。米国の著名な都市計画家ケヴィン・リンチの分析枠組(道・境界・街区・結節点・目印)を巧みに使い「大田区の骨格」の説明から始まります。JR京浜東北線で街区は東西に二分されます。西の代表は、渋沢栄一が開発した高級住宅地「田園調布」。東の代表は、国内外に開かれた空の玄関「羽田空港」。
空港周辺を中心とした開発でヒト・モノ・カネ・情報の流出入を自在にコントロールする「臨空都市」あるいは「ゲートウェイ都市」としての構想が光ります。多摩川の左右に広がる国際戦略港湾である京浜港の国際コンテナ物流施設をつなぐ「多摩川スカイブリッジ」も完成し、自動運転のバスやロボットレストランなどの社会実験が進む「羽田イノベーションシティ」も完成間近。また藤田医科大などと連携し、先端医療の研究とサービスの国際戦略も具体化を進めています。極めつけは、JR蒲田と京急蒲田を「新空港線(蒲蒲線)」でつなぎ、東急多摩川線ともつなぐことで川越から羽田空港への最速ルートが構想から実現に向けて動き出しました。文字通り、埼玉・神奈川の結節点になるのです。
かつては、光学と化学と音響学の見事なコンビネーションで生まれた「活動写真」製作のリーダー。そして現在は、国際ゲートウェイシティとして歩み出した大田区。そのダイナミックな動きを多摩川は北西から南東に向けて「境界」として応援しているようです。

ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』
(プラド美術館蔵)の一部。女官たちと犬。
カンバス側にベラスケス本人と後ろの鏡に国王夫妻。

羽田イノベーションシティにあるPiO PARK内の
展示スペース。イベントスペースも用意。

大田区民ホール・アプリコの前庭にある
映画『キネマの天地』に使用された
『松竹橋』親柱と欄干のレプリカ。

国際線ターミナルに飛行機。そして右側に
多摩川スカイブリッジ。空と陸内外の
ロジスティクスのハブに。
その31 (2023年4月3日)
経済学の父アダム・スミスはダイヤモンドと水を使って「価値のパラドックス」を説明します。これは使用価値と交換価値の違いなのですが、交換価値で見るとダイヤモンドが水より圧倒的に高いのですが、誰とも会わない炎天下の砂漠ではどうでしょう?ダイヤモンドは役に立ちませんが、水は貴重ですね。水と「お米」では、このパラドックスは成り立ちません。
というわけで、豊臣政権から徳川政権への移行期に検地による「石高制」が本格化します。土地の価値をお米の収量で決めて、諸大名に課す負担や幕府役職の任免を円滑化。やがて石高も幕府公式で家格を表す「表高」と、新田開発や検地の徹底で決まる実質の「内高」とが乖離します。全国各地で新田の開発が始まりますが、水量は天候に左右され、とくに関西のように降雨の少ない地方では水争いが頻発します。
二ヶ領用水は江戸に転封された徳川家康の命で代官小泉次太夫が差配し1597年測量開始、その後開削し14年の歳月で完成した用水です。名前の由来は川崎領と稲毛領にまたがるから。用水としては日本を代表する長い歴史を誇ります。川崎市多摩区から幸区までの全長32kmの用水ですが、川崎の工業地帯としての発展から、やがてその一部は工業用水としても活用されます。今は上河原と宿河原の2か所の堰を設けて取水しています。ところが1974年、多摩川の水を二ヶ領用水に取り込む二ヶ領宿河原堰の設計ミスで堤防が決壊し対岸の19棟の家屋が流出します。ただし現在の二ヶ領宿河原堰は、二度とあのような事故が起きないように設計されています。
まだ桜の花が3分咲きの春うららの午後、二ヶ領宿河原堰のある「二ヶ領せせらぎ館」にNPO法人「多摩川エコミュージアム」五十嵐代表理事、かわさき水辺の楽校安立校長のお二人を訪ねました。お二人に二ヶ領用水を船島橋から八幡橋までぶらぶら歩きながら用水の脇を小一時間ほど案内していただきました。宿河原から引いた水は傾斜がありますから、水中のマコモを揺らしながら下流に向かってどんどん流れてゆきます。その水面に桜の花が映り、春の日がキラキラ光を反射させます。川崎や蒲田に用のある時使っている南武線ですが、宿河原駅から用水が並行しているとは知りませんでした。対岸にある狛江側の河川敷では、スポーツなどに興じる人たちがいますが、川崎側の河川敷には釣り人以外、人はまばら。深い淵が続くので安全上の配慮でしょうか。
八幡橋を過ぎて用水の水は南下を続け、やがて久地にある「久地円筒分水」に注ぎこみます。昔からここの「久地分量樋」で久地堀、六か村堀、本流の川崎堀、根方堀に分水されていましたが、当初は水のコントロールがうまくいかず「水争い」が度々起こったようです。漸く1941年、農業水利改良事務所長の平賀栄治により平瀬川の改修をもって、「円筒分水」によって正確に4本の堀への分水が可能になります。この分水技術は戦後、GHQの土木技師を通じて米国にも紹介されるほどで、現在この方式は全国に100数か所採用されています。「久地円筒分水」は1998年国の登録有形文化財、そして「二ヶ領用水」は2020年国の登録記念物に指定されました。

二ヶ領宿河原堰から対岸和泉多摩川の
「狛江古代カップ多摩川いかだレース」会場が。

二ヶ領用水の水は、平瀬川と合流し一部は多摩川へ。
日当たりが良く桜が満開。

「久地円筒分水」はちらほら咲き出した桜と
満開の菜の花で彩られ、近隣住民の憩いの場。

二ヶ領用水に沿って桜並木が延々と続く。
3分咲きというところか。
その30 (2023年3月1日)
地球の営みが大地の恵みを生んだのでしょうか。約2500万年前にアジア大陸から分裂したのが日本列島の始まり。1000万年かけてほぼ現在の位置に移動しました。時計回りに、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの計4枚のプレート上に日本列島があります。活火山がプレートのへり近くに列をなし、マグニチュード6以上の大地震の数では地球全体で10%も集中する「変動帯」なのです。太平洋プレートの強い圧力は、東日本に逆断層の高い山を作り、フィリピン海プレートの動きを方向転換させ西日本に「中央構造線」といった横ずれ断層を作りました。
平らな土地が少なく急峻な山に囲まれた日本列島。山から海までの距離はありませんから、台風などで川が暴れたら、なすすべもありません。西洋の常識からすれば、日本のほとんどの川は通常の流れでも「滝」かもしれません。例えば信濃川(長野県側は千曲川と呼びます)の河川勾配はセーヌ川の10倍です。勾配がきつく流れが速くなりますから、地中の鉱物をゆっくり含む暇もありません。日本の川はカルシウムなどの含有が少ない軟水、ゆっくり流れる欧州の川は硬水。軟水は、昆布(グルタミン酸)、鰹節(イノシン酸)、椎茸(グアニル酸)などの旨味成分をしっかりと取り込み旨い出汁を作ってくれます。硬水では昆布の旨味成分を十分に抽出しません。つくづく日本に生まれた幸運に感謝しなければと思います。
ということで、「袖ひじて結びし水のこほれるを」溶いてくれるはずの立春を過ぎても、まだ寒風が吹きすさぶ奥多摩へ。まず奥多摩町が管理する海沢(うなざわ)試験圃というわさび田に。手が切れそうな冷たい沢水の流れる傍に生えているわさび菜をつまんで洗い食しました。何とも言えない清冽な香が口の中に広がります。旧海沢村の奥多摩わさびは、『武蔵風土記』にも紹介された昔ながらの名品なのです。
実はこの時期の奥多摩をめざしたのは、30センチほどに成長した「奥多摩ヤマメ」のお刺身を、奥多摩のわさびと一緒に食したいから。このヤマメは奥多摩さかな養殖センターが開発した養殖魚です。大丹波の里にある東京食材を存分に使用する「釜めし なかい」に予約を入れる時、牧野養魚場の「奥多摩ヤマメ」も注文しました。坪庭の窓越しに寒さの中でもつぼみが若干開きだした梅の木を愛でながら、まず「サーモン色」の奥多摩ヤマメに舌鼓を打ちます。この時期ならではの新鮮さとひき締まったヤマメの身が、しゃきっとした大根のツマと一緒に色鮮やかに出てきました。皿の脇には、石ずりした天然わさびが可愛くのっています。川魚特有の臭みなどは一切ない、上品なごちそうでした。次に釜飯です。ごぼうと若干濃い口の醤油で味付けした新潟産米で炊いた釜飯は、串焼きした鳥の胸肉を乗せたこれも逸品。香ばしい香りが口の中に広がります。白菜としめじととり肉の薄味の汁がまた絶品。手づくりの刺身こんにゃくで口直しの後、最後のデザートは小豆の甘さが程よい小麦饅頭。お店は若手がしっかりと跡を継いでいるので、ここまで足を延ばすことが当分できそうです。
途中で吉野梅郷の開きかけの梅の花を見、河辺駅前の天然温泉ですっかり冷え切った体を温めて帰路につきました。

牧野養魚場のある海沢谷。
2019年10月12-13日の台風19号で
その橋梁を飛び越す濁流。

収穫の終わったわさび田(海沢試験圃)。
手が切れそうな冷たい沢の水が流れる。

奥多摩さかな養殖センターの生け簀。奥多摩ヤマメの
種苗が河川漁協や養殖漁協に供給される。

早春の大丹波の里。「釜めし なかい」
の窓から見える庭の梅の木。
その29 (2023年2月1日)
江戸時代の日本橋は、東海道という大動脈で商流・物流そして人流の起点でした。魚河岸も、金座や三井両替店、同呉服店などの大店もあるお江戸100万都市の要。西に向かって7つ(午前4時頃)立ちし、漸く朝を迎えるのが、日本橋から約2里(8キロ)の品川宿・高輪あたり。提灯の明かりを消して約2里少し歩くと、六郷川(多摩川下流域)のたもと。そこに架かる六郷大橋は日光街道の千住大橋(現墨田川に架橋)と並び称される大橋。長さ約200米、幅7米の大橋ですが、多摩川の異名は暴れ川ですから何度も流されて、1689年幕府は架橋を諦めて六郷の渡しを舟で往来することにします。その対岸の船着き場が川崎宿。歌川広重の大ベストセラー版画「東海道五十三次之内」全55枚の一枚「川崎」。構図のなんというすばらしさ。右に真っ白な雪を頂く富士山、左に宿場町。板葺き、茅葺の平宿・飯盛宿、そして農家が混在しています。穏やかな六郷からの渡し船の乗客の男女はキセル煙草を嗜んでいます。川崎側は、まったく「対照的」。緊張感がみなぎる番所や江戸屋敷に向かう武士とコメなどの荷駄を運ぶ馬が描かれています。
川崎宿に入ると、「万年屋」の有名な近海魚と野菜で炊き込んだ奈良茶飯は、現在おこわで再現中。旧東海道筋にある「東海道かわさき宿交流館」は、万年屋を模した室内を入口に配し、2階には江戸時代の宿場を忠実なジオラマ展示。そこから約1キロ西の京急線八丁畷駅近くに芭蕉の句碑があります。1694年5月、体力の限界を自覚した松尾芭蕉は、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と詠み、江戸の俳人仲間・弟子たちと別れ故郷伊賀へ。5年前の1689年5月、「芭蕉庵」のある深川から船で千住に向かいます。「月日は百代の過客にして」で始まる芭蕉と曾良の『奥の細道』紀行。きっと1594年架橋の千住大橋も眺めたはずです。このときも死を覚悟し、門人たちと団欒の宵越しをするのですが、「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」と最初の句が詠まれます。知人、門人は言うに及ばず、鳥や魚までが私の出立を悲しんでいると。
「魚」ついでに、このフォーラムの代表的事業でもある「多摩川子ども環境シンポジウム」の主宰者で、運営委員の故山崎充哲さん(通称 山ちゃん)を語らなければなりません。彼が創設した「おさかなポスト」は、飼い主から捨てられた魚や亀など水生動物を自宅の生け簀や水槽で飼育し、里親を募集するシステム。また環境教育の講演教材とするソーシャルビジネス「ふれあい移動水族館」として、多摩川両岸の小中学校に軽自動車で実際に運び、規模と予算に応じた教育プログラム提供がウリです。「コロナ禍になる前は、熱心な学校からの引き合いは多かったのですが、コロナで開店休業。漸くぼちぼち増えつつあります」と、彼の後継者で運営委員を引き継いでくれた愛柚香さん。親御さんの実家がある山紫水明の兵庫県姫路市で早くから釣りに目覚めた山ちゃんは釣り具メーカー「がまかつ」に就職。しかし、「泡立つ多摩川」、開発に伴う環境破壊に憤り、環境影響調査会社を設立した熱血漢。事業で蓄えた資金で「おさかなポスト」を。ビジネスよりもボランティアに近いのですが、彼は真剣。「多摩川子ども環境シンポジウム」への情熱へとつながります。
彼が良く通った多摩川べりを京王相模原線の電車が走ります。ずいぶんきれいになった多摩川を天国からきっと笑顔で観察していることでしょう。

歌川広重作画「東海道五十三次之内」から「川崎」。
両岸の対照的情景が見事に描かれている。

江戸に向かってまっすぐ伸びる旧東海道。
宿場町の中間にある「東海道かわさき宿交流館」


