
会長談話室
~ときの流れ、まちの風~
美しい多摩川フォーラムの細野助博会長が、時には多摩川の上流から下流までを実際に訪ね歩き、地域に残る歴史・文化や環境問題、多摩づくりについて等、その時の想いを綴ります。
2020年10月から月に1回くらいのペースで更新してきた会長談話室ですが、2024年6月3日の「談話その45」をもってひとまず終了とさせていただきます。
【細野会長 プロフィール】
日本の経済学者。中央大学名誉教授。財務省財政制度等審議会前委員。専門は産業組織論、公共政策論、コミュニティ政策、都市政策論。
新潟県出身。慶應義塾大学経済学部で加藤寛に師事。同大学院経済学研究科修士課程修了。筑波大学大学院社会工学研究科都市・地域計画専攻博士課程単位取得満期退学。
日本ユニバック(現日本ユニシス)研究員帝京大学助教授などを経て、中央大学総合政策学部、大学院公共政策研究科教授。1997-98年メリーランド大学客員教授、2007年から中央大学院公共政策研究科委員長。2019年退任、名誉教授。
GS1 Japan 評議員会議長、日本酒蔵ツーリズム推進協議会会長、日本公共政策学会元会長。(一社)日本計画行政学会元会長。多摩ニュータウン学会名誉会長。学術・文化・産業ネットワーク多摩専務理事。
『東京二都物語』(編著、中央大学出版部, 2019年)等、多数。
その45 (2024年6月3日)
桜の開花が待たれる3月中旬の日曜日、ボートを楽しむ人たちで賑わう大田区の洗足池畔を訪れました。2010年に当フォーラムが「仙台紅枝垂れ桜」を寄贈植樹した縁で大田区の松原前区長、鈴木区長、それに超党派の議員さん達と親睦を深めるためです。洗足池近くの高台に「大田区立勝海舟記念館」と、海舟夫妻のお墓、それに西南の役に敗れた西郷を偲ぶ石碑があります。この幕末の二大英傑は江戸の八百八町が焦土と化すのを未然に防ぐ「知恵」を出しあいました。
ところが昭和の政治家や軍人達は、この先人の苦労を引き継ぐことなく無謀な戦争を始めます。戦況悪化した1945年に入り、連日B29による空襲で首都は焦土に。特に3月10日の夜間空襲で、罹災者100万人超、死者9万5千人超の甚大な被害を出しました。「もし昭和に西郷、勝と言わないまでも、せめて山県有朋がいてくれたら」と何度でも思うのです。
1868年に時計の針を戻します。1月の鳥羽伏見の戦いで、数で優っても何もかも旧弊な幕府軍は、西洋式に訓練され最新式の火器で装備した新政府軍にあっけなく敗れます。結果として、西郷が率いる新政府軍は大いに士気が上がり「慶喜を切腹させ、徳川を潰そう」と江戸に向かって北上。江戸に逃げ帰った慶喜は謹慎。善後策を任された勝は徳川家を守り、江戸を新政府軍に蹂躙させないよう、新政府軍の総攻撃に対して火消しや博徒を使う「江戸焦土作戦」をちらつかせます。新政府軍は3月15日を江戸総攻撃の日と定めていました。また、ロシア、米国、英国、フランスなど諸外国は、日本がどう転ぶのか、植民地にしてうまい汁が吸えると、まるでハゲタカ。
さて、西郷と勝の二人は13日に薩摩藩下屋敷、14日に同蔵屋敷で丁丁発止の交渉を始めます。攻める西郷側の「江戸総攻撃」、迎える勝側の「江戸を焦土に」が二人にとっての選択。しかし、双方の選択から、「江戸焦土で、120万人の武士・町民に死の危険。内戦で疲弊した日本は諸外国の植民地」という最悪の結果が予想されます。西郷が「総攻撃を中止」、勝が「江戸を焼き払わない」という賢い選択に切り替えるにはどうするか。本当は二人とも、この賢い選択を採りたいのです。でも周りはこの賢い選択を絶対に許しません。ここで勝が先手を打ちます。世界最強英国のパークス公使に「俺の号令で江戸中に火をかけたら、お前さんら当分貿易などできないよ」と耳打ち。驚いたパークスは、西郷たちに早速圧力。これで西郷には「英国からの外圧だから、どうしようもない」と新政府軍を説得する口実ができます。良い意味でも悪い意味でも、いつの時代も外圧が日本の明日を決定します。パークスの他、ペリー然り、マッカーサー然り、日米貿易戦争然り、今の円安も日本を変えるチャンス。
そして無血開城直前の4月9日、10日に新政府軍の拠点「池上本門寺」で武器・軍艦の引き渡し交渉が行われます。お互いの信頼に基づいた二大役者だからこそ実現した「奇跡の」交渉劇でした。本営がある池上本門寺への道すがら、洗足池を気に入った勝は「洗足軒」という別荘を建て、お墓をここにと遺言します。勝は生前から毀誉褒貶が絶えませんでしたが、それに動揺もせず堂々と自らの生き方を貫きました。カオスの世界に突入した現在だからこそ、他人の評価に右顧左眄しない堂々とした日本人を育てる教育の大切さを思いました。これこそ日本が生き延びる最善策なのです。
コロナ禍で書き始めたコラム「会長談話室」は、対面の行事が可能になりましたのでひとまず閉じたいと思います。皆様からの励ましとご笑覧に深く感謝いたします。

足でこぐ白鳥型ボートを楽しんでいる家族連れ達。風光明媚な早春の洗足池のほとり。春の息吹に木々は萌えだしていた。

気品と歴史を併せ持つ世界を代表する名城、江戸城(現皇居)が内堀に映える。徳川幕府から始まり、現在もなお日本の象徴的空間として存在する。

当フォーラムでお世話になる議員さん達。後ろの2010年に寄贈した「仙台紅枝垂れ桜」は寒い日が続き、まだ開花していなかった。

江戸城無血開城に向けて最終合意をしたと言われている薩摩藩蔵屋敷址。この 蔵屋敷は日本橋と京都をつなぐ東海道に面している。
その44 (2024年5月1日)
小田原北条5代百年の栄耀栄華が秀吉によって儚く消えると、秀吉の牙は家康に向けられます。父祖伝来の三河を中心とした領地から、関八州に転封を命じられた家康の胸中は・・・。1590年、彼は意外にも東都の小田原でも鎌倉でもなく、荒涼殺伐とした沼地広がる鄙の江戸を選択します。
しかし、江戸には水の大問題が二つありました。一つは雨水を貯めこまない泥質の関東ローム層ですから、ひとたび大雨になると江戸の地は水浸し。治水対策が必要でした。もう一つ、この地域は大きな湖沼のない台地と、城内にも塩水が流れ込む低地だけですから、万年飲料水不足。利水対策が必要でした。幕府の威光に比例して、江戸の人口は増えるばかり。まさしく「江戸の水をどうする家康」でした。
鷹狩が趣味の家康。三鷹付近で古来有名な「七井の池」(後に井の頭池と命名)から流れる平川(神田川)を中心に、善福寺川と妙正寺川を途中で合流させ、さらに玉川上水の助水を淀橋で併せて関口大洗堰に集めます。この堰で左右に分水し、左側を神田上水として江戸市中に給水。江戸に居を構えた松尾桃青(芭蕉)も、日々の糧を得るため分水工事の職に就きます。上水は水戸藩上屋敷の庭(小石川後楽園)にも流れ、右側の余水は江戸川(後に神田川に呼称統一)として流しました。水戸藩は、光圀(水戸黄門)と最後の将軍一橋慶喜を出した御三家の一つ。井の頭池に発する「神田川」は、徳川幕府の始まりと終わりを繋いでいました。
さて、神田川を語る時、山県有朋のことも避けて通れません。彼は40歳の1878年、早稲田の大隈重信邸を睥睨する台地に、庭園が見事な「椿山荘」、功成り名遂げた65歳に神田上水を引いて「新々(さらさら)亭」を造ります。「陽の大隈と陰の山県」とでは、国民の人気も雲泥の差。1922年1月の日比谷公園で行われた大隈の国民葬参列者30万人、ひと月遅れの山県の国葬参列者は千人にも満たない。でも、「人気と実力は必ずしも比例するものではない」と、古今東西の歴史が教えてくれます。椿山荘は早々売却され、今は都内有数のホテル。新々亭は跡かたもなく消え失せます。
季節外れの寒さで桜の開花が少し遅かったのが幸いし、訪れた日はちょうど桜が満開。井の頭池は老若男女の花見客でごった返していました。家康はこの大池と美味な湧き水に感激し、「これで江戸市中に水を配給できる」と安心。京王井の頭公園駅近くの取水口から神田川が続きます。
南こうせつとかぐや姫が唄う『神田川』は、早稲田の地で生まれた昭和を代表する名曲。「何も怖いものはなかった」と青春を謳歌しても、それは長くは続きません。「若かったあの頃」を切り取った甘く切ない曲だから、ぴったり国民の琴線に触れました。後に俳聖と呼ばれる芭蕉もまだ駆け出しなのに、背伸びして一等地日本橋に住み、「たな賃の 高き軒端に 春も来て」の句を詠みます。この句は、江戸時代の『神田川』ではないでしょうか。春真っ盛りの「神田川」は、江戸と現代の若者文化も繋いでいるのです。

東京ドームを借景にした小石川後楽園に流れる神田上水と早春の息吹が感じられる庭園。水戸藩は徳川幕府が抱える時限爆弾だった。井伊直弼暗殺から次々に破裂し、幕府の滅亡につながる。

井の頭池の南東端、石造りの水門橋辺りから始まる神田川は、江戸、明治、昭和というそれぞれの時代をもっともよく映した川の一つ。玉川上水と神田上水は江戸の人々の生業と生活を支えた。

椿山荘は結婚式場として都内有数のホテル。有朋は、軍人だが造園家や歌人としての才能がひかる。「さらさらと 木がつたひゆく ゆく水の 流れの末に 魚の飛ぶみゆ」と詠み「新々亭」を水道町に。

『神田川』の作詞が生まれるきっかけとなった小滝橋からの桜と神田川。「無鉄砲」は若さの特権。「武士を捨て俳諧師、そして出家」と、妻子と波乱の人生を漕ぎだす松尾芭蕉にも共通していた。
その43 (2024年4月1日)
日本のGDP(家計、企業、政府の国内での経済活動の総額)は2010年に中国に抜かれ、昨年にはドイツに抜かれ4位に転落しました。米国に次いで第2位になり、「ライジング・サン」と世界で一目置かれる存在になる1968年頃と比較し、隔世の感があります。
「軽武装経済強国」路線を吉田茂が選択し、それを池田勇人が「所得倍増計画」に具体化して見せます。こうして「大都会に期待と一抹の不安」を胸に秘めた地方の次男・三男坊を乗せた「集団就職列車」が、製造業の集積する太平洋ベルト地帯に向かう時代が到来します。東京の人口増加数は1960年代前半で年平均33万人強、後半は23万人。1年で一つの特別区が新しく生まれるのと同じですから、当然住宅不足が深刻化し、そのために1955年に日本住宅公団が、75年に宅地開発公団が設立されます。後に両公団は統合し、さらに2004年に都市再生機構(UR)という「日本最大の大家さん」に生まれ変わります。
1959年に日本住宅公団が保谷町・田無町・久留米町にまたがる34haに造成した「ひばりが丘団地」は、千里ニュータウンや多摩ニュータウンの先輩格です。公団は、「農村の魅力(健康的な自然環境)と、都市の魅力(最先端の科学技術)の結婚」で、快適な郊外生活をデザインした英国のエベネザー・ハワードの「田園都市」を手本にしたのです。
運動施設・行政出張所・学校・緑地公園・スーパー誘致などで生活に必要な複合施設を備えた先進的な団地の誕生でした。そこに暮らす「団地族」とは、「年齢の割には所得水準が高く、一流の大企業や公官庁に勤めるサラリーマン」と1960年の『国民生活白書』に書かれています。電化製品を取り揃え、パン食・イスに代表される新ライフスタイルは庶民には「憧れの存在」。
さて、保谷町・田無町はそれぞれ時を置かず市になります。どちらも小さくいびつな形なので、早くから合併話がありました。「究極の行財政改革」と合併を位置づけ、2001年に西東京市に。都心への近さから、合併前の2000年の2市の人口17.7万人が20年には20.6万人に増加しています。
明日の天気予報をライトの色で知らせるスカイタワー西東京は高さ195m。新青梅街道沿いにあります。タワーを右手に街道を北上すると、東久留米市と西東京市にまたがるひばりが丘団地。すっかりリニューアルしていましたが、往時の面影を探してさまよった先に、「ありました!」十字型中層住宅「スターハウス」。近くの「お山の公園」の広場では、寒さなんか平気な園児たちが元気に遊んでいます。松林の中に何列も並んでいたモダンな2階建ての「テラスハウス」が、現在はコーヒーハウスの「ひばりテラス118」だけ。
若い世代を呼び込もうと、URが自らの存亡をかけてリニューアルした成果でしょうか。人だけではなく建物も「老いるニュータウン」をリニューアルするには、適切な規模と地の利とが条件です。老いる多摩ニュータウンばかりでなく、日本の将来がとても気になります。

本願寺別院の境内から仰ぎ見るスカイタワー西東京。夜間は紫、緑、青にライトアップ(順に晴れ、曇り、雨)され、「天気予報タワー」と地元では人気。

中層4階建ての「スターハウス」は、外観は往時のままだが内装を整えて管理事務所に。その前のオープンスペースのお山で元気に遊ぶ園児たちをやさしく見守っている。

すっかりリニューアルされてよみがえったURの「ひばりが丘パークヒルズ」の中高層住宅と春を告げる満開の桜が周辺にいろどりを添える。

こ洒落たコーヒーハウスにリニ ューアルされた2階建てテラスハウス(二軒続きのタウンハウスはE.ハワードのお気に入り)。美味しいコーヒーと素敵な時間を提供してくれそう。
その42 (2024年3月1日)
「武蔵野を散歩する人は、道に迷うことを苦にしてはならない。どの路でも足の向く方へ行けば必ず其処に見るべく、聴くべく、感ずべき」ものがあるという有名な一節は、国木田独歩の『武蔵野』(1898年)にあります。この国民的作家は、1908年6月友人たちに惜しまれながら、あまりにも若い37歳で波乱万丈の生涯を閉じます。肺結核でした。
ジャレド・ダイアモンドは『銃・病原菌・鉄』(1997年)で、都市の誕生が空気感染する結核などの「病原菌にとって素晴らしい幸運をもたらした」と。欧米白人に比較し日本人は結核菌への抵抗力が弱く、特効薬もない戦前、若者の罹患率が高く「国民病」と呼ばれ死亡率も第1位でした。
結核病院やサナトリウムは、空気感染を恐れる住民からは当然歓迎されません。しかし、都市化と戦争で結核患者は増加する一方。清浄な空気と安価な雑木林が、青梅や清瀬にありました。候補地の双方で反対が高まりますが、最終的に清瀬に決まります。1931年結核を専門とする1万1千坪の広大な敷地を持つ東京府立清瀬病院ができ、その周りに病院やサナトリウムが集まります。俳人石田波郷が清瀬で編んだ句集『借命』も傑作ですが、多くの作家がこの地を題材にしています。
戦後は結核研究所によるBCGワクチンの開発や治療法の進化で病魔は抑制されます。不要になった跡地や周辺に、国立看護大学校、看護研修学校など医療関係の施設ができました。
予報通りの湾岸低気圧が降らせた大雪の2日後、現在も結核病床の80%を占める3施設が残る清瀬を訪ねました。あたりに残る雪が大気の汚れを落としてくれたのでしょう。静寂と真っ青な青空と清浄な空気が迎えてくれ、思わず深呼吸をしました。
この大雪をぴったり予測するには、2016年に運用を開始した気象衛星「ひまわり9号」の画像データが不可欠。文字通り、「ヒマワリはいつも日本が見えるよう」、時速11,000kmで約36,000km赤道上空を1日1回まわります。そして、地球を10分ごとに、日本付近を2.5分ごとに撮影しています。
清瀬には、気象庁気象衛星センターがあり、送られてくる画像データの受信から活用目的に沿って数値解析し、その結果を発信しています。気象衛星から送られてくる各種情報がスーパーコンピューターで処理され天気予報に利用。そして、「山火事などのピンポイントの画像」なども海外に提供します。
大気という典型的な流体は、固体(雪)、液体(雨)、気体(水蒸気)と相転移する厄介な代物。それに山岳と平野などの地形の要因も絡まる、非線形力学の世界。大気とは予測を不可能にする「無数の悪戯好きの小悪魔」がいたるところに潜む「カオスの世界」です。
下駄を放って占うのではなく、気象衛星、数学、そして何よりもコンピューターの力業が必要です。本格的な実用化は、1970年代に入ってから。今は誰もが、天気予報を信用しています。でもまだまだ小悪魔は手強く、楽観視できません。将来病理学や気象学の博士が生まれるかもと、雪で遊んでいる保育園児を見ながら手前勝手な期待を胸に清瀬を後にしました。

昔の面影を残す「清瀬病院・東京療養所」の門柱。周囲に高度医療や臨床研究・研修をする「国立病院機構・東京病院」や「結核研究所」が点在。

国立高度専門医療研究センターの看護職を養成するために、2001年に設立された国立看護大学校。

1978年静止気象衛星「ひまわり」は本格運用。気象衛星センターのシンボルともいえるタワー。
スーパーコンピューターの「数値解析予報システム」(NAPS)が天気予報を行っている。

大雪の翌日の午前中、清瀬の保育園児たちは寒さも なんのその。懸命に友達と雪ダルマづくりに興じていた。
その41 (2024年2月1日)
家康を祀る日光東照宮を、「杉の森に置かれた聖櫃」にたとえたフランス大使ポール・クローデル(赴任期間1921-27)は、中禅寺湖畔の大使館員用ヴィラを度々訪れます。ヴィラの角部屋にある赤い机で、孤立の道を選択しようとする日本を懸念しつつ、国内情勢を分析した書簡を本国に向けて執筆。日本をこよなく愛していましたが、日本の教育には手厳しく、学生を「成長を助ける対象」と考えず、知識を詰め込む「単なる箱」と見ていると批判します。
クローデルと同様、明治末期から大正期にかけての「西洋に追いつき、追い越せ」式教育に疑問を呈し、全人教育を実現させようと「大正自由教育」運動が盛り上がります。既にふれた羽仁もと子、小原國芳、そして成蹊学園の祖中村春二が代表者です。学友の三菱総帥岩崎小弥太、銀行頭取今村繁三が彼の支援者です。岩崎が留学中のケンブリッジ大学から送った手紙の内容は、クローデルの教育批判と全く同じ。ちなみに、今村の国分寺の広大な別荘地は現在、日立中央研究所となっています。
中村は、「一人一人の個性を磨くには、少人数教育に限る」と確信し、1906年に子弟が寝食を共にして人格を陶冶する教育を目指して、本郷西片町に全寮制の私塾を開き、翌年「成蹊園」と名づけます。教育理念「自発的精神の涵養と個性の発見伸長を目指す」、は今も学園全体に立派に受け継がれています。
彼は1912年に、今村と岩崎の経済的支援と自らの私財を合算し、経済的に困窮する有為の若者のため池袋に無月謝の「成蹊実務学校」を創立します。そして14年に中学校、翌年に小学校、17年に女学校と三菱の要請を受け実業専門学校を開校します。1923年9月の関東大地震も乗り越え、岩崎と今村の尽力で1924年8万坪余の広大なキャンパスを武蔵野市吉祥寺の現在地に。しかし中村は心身の酷使で、移転後の新校舎を見ることなく46歳の若さで逝去します。常に教え子に囲まれることに無上の喜びを感じていた中村には「画家になる」夢もあり、暇があればスケッチに余念がありませんでした。成蹊学園史料館には、私にはセザンヌタッチと思われる中村の水彩画。高等教育の進学熱のたかまりの中で、1925年7年生の成蹊高等学校が開校。今日の一大総合学園の礎が築かれたのです。
現在、吉祥寺キャンパスには、小・中・高・大・大学院までの幅広い世代が学んでいます。成蹊学園の特色は「本物に触れ、体験して学ぶことで、豊かな感性を育む」、「児童・生徒・学生の世代を超えた学びの交流の中で、多様な価値観や多角的な思考力を身につけ、国際的にも通用する人格に磨き上げていく」ことでしょうか。そしてワン・キャンパスならではの一貫連携教育が実践されています。
典型的な冬空に富士山が白いキャップをかぶって秩父丹沢山系越しに悠然と佇んでいます。若干寒さが和らいだ昼下がり、JR吉祥寺駅からキャンパスに向かいました。有名な欅の並木はすっかり葉を落としていますが、その分日光が下校途中の小学生を温かく包んでいます。成蹊学園史料館の方々からの心のこもった説明と大部の『成蹊学園百年史』など持ちきれない位の資料も頂き、何か中村の志しと通じ合うものを感じました。キャンパスに隣接する瀟洒な住宅街の中に、保存されている旧制高校の寄宿舎として使われていた米国様式の一軒家を写真に収め、満たされた気持ちで帰路につきました。

文化人大使ポール・クローデルが好んだフランス大使館ヴィラ。初秋の中禅寺湖が窓越しに見える東南端の部屋には愛用の赤い机。

小春日和のある日、武蔵野の一角を占める広大なキャンパスの正面にレンガ造りの学園本館。

成蹊学園の祖中村春二が描いた成蹊実務学校全景図。少年時代を懐かしんで描いた帝大在学中の絵。下の写真は今村繁三と岩崎小弥太。

米国風の1924年旧制高校時代の寄宿舎「有定寮」。極めて貴重な建物で、現在は国登録有形文化財で「濱家住宅西洋館」という。
その40 (2024年1月4日)
町田を語る時、欠かせないテーマは玉川学園と白洲次郎です。町田を縦断する小田急線には、成城学園前駅と玉川学園前駅があります。成城学園は今では高級住宅地の代名詞ですが、その成城学園の校長をしていた小原國芳は、1929年町田の地に新たに玉川学園を創立します。東京ディズニーランドの1.2倍という広大な敷地には幼稚部、小学部、中学部、高等部、大学、大学院があります。玉川学園は知育と徳育を兼ね備えるための「全人教育」をモットーに、「真・善・美・聖・健・富」の価値を時代の変化に対応させながら伝統ある教育理念としてさらに磨きをかけて、「教育と言えば玉川」の高い評価が「一貫教育(K-12:Kindergarten to 12th)」を土台に確立されています。
敗戦からすぐ、GHQは教育の民主化を急ぎます。大正デモクラシーを沈黙させたのは軍部だけではなく、国民も同列。その根っこに教育の問題があったと見たのです。GHQの民間情報教育局(CIE)の要請を受けて結成された米国教育使節団は、全国各地の模範となる学校を1ヶ月かけて調査し、『米国教育使節団報告書』を提出します。その中に、1946年3月26日に玉川学園参観とあります。この報告書を受けて、教育基本法など戦後教育の理念や枠組みが順次整えられてゆきます。
冬のある日、玉川学園を訪れ、教学部の光森多佳子さんたちにキャンパスを校用車で案内していただきました。高いヤシの木が南国情緒を引き立たせるコロニアル風の小学校の建物。米国東部の大学校舎と同じ様式の校舎がそれぞれ「**Hall」と命名され配置されています。教育博物館や小原記念館(創設者の住居を改装した展示・見学施設)を案内されましたが、「新しい日本の子どもたちを自分の手で」という強烈な個性と使命感がまだ漂っているのではないかと、思わず錯覚してしまいました。
そして白洲次郎です。彼は神戸の実業家の息子。当時の御曹司の例にもれず、ニュートンも学んだケンブリッジ大学に進学。そこで独立精神と「プリンシプル」(原理・原則)重視を叩き込まれ、国家の一大事に領地からはせ参じる「カントリー・ジェントルマン」となって帰国します。
軍部の横暴に「やってられない。負け戦だ。東京は焼け野原で食料も枯渇」と踏んだ白洲は、1941年に現在の町田市鶴川に。古い農家を不愛想な彼にちなんで「武相荘」として改築し、農作業に勤しみます。敗戦後、外相吉田茂は白洲をGHQの連絡役に引っ張り出します。GHQの横暴に腹を立て、美辞麗句のお追従ばかりの政治家・官僚を訥弁で怒鳴りつけます。その真骨頂はサンフランシスコ講和条約。白洲は外務省と米国とで作成された英文の演説草稿を破棄し、日本語に作り直させます。吉田もまた役者。会場のオペラハウスの壇上で、「どうせ誰も分からない」と30mに及ぶ巻紙の日本語原稿を読み飛ばし演説。こうして日本は独立したのです。この凸凹コンビを持った日本はラッキーでした。
日本という国は、小さなエンジン付きの帆船に例えられます。このエンジンでは独力で大海に漕ぎ出すには馬力不足、でもうまく帆で風をとらえた時、海洋で大きな船を追い越すのです。黒船もGHQも一種の風。時の船長は吉田茂で、その傍らにいつも白洲がいました。彼らは大海原から吹いてくる風を上手く帆に受け、経済大国の道筋を走り出します。町田は強烈な個性を持った小原國芳と白洲次郎の二大傑物を擁したのです。ちなみに白洲の子どもたちにも玉川学園卒業生が。白洲は学園で「プリンシプル」について講演を行っています。

3本のクリスマスツリーが飾られた大学教育棟2014前。ハーバード大学など米国東部アイビーリーグのキャンパスを思わせる。

太陽の恵みがいっぱいのサンテラスが教室を囲う、開放的な小学1年生から5年生までが学ぶ校舎。コロニアル様式の建物には、花壇やビオトープ、そしてヤシの木がよく似合う。

白壁がまぶしい「武相荘」長屋門の左側には、白洲次郎が中学生時代に乗り回した米国車ペイジ・グレンブルックを格納したガレージ。彼が過ごした神戸時代は白洲家の黄金時代だった。

茅葺の屋根が風格を添える母屋。玉川 学園OGの白洲の娘さんたちが経営するカフェが右側に見える。母屋の奥は小高い丘になっていて、多摩丘陵の面影が偲べる。
その39 (2023年12月1日)
多摩地域は全国有数の学園都市で、キャンパスは70近くにのぼります。しかし少子化でキャンパスの縮小・閉鎖や都心回帰も本格化しています。その象徴が「聖書」「国際」「園芸」を正課に質の高い教育で評価の高い「恵泉女学園大学」(1986年多摩市に開学)。残念ながら2023年で学生募集停止します。恵泉女学園はキリスト教の精神をもとにした「女子のための私立学校」として、河合道が1929年新宿区牛込神楽町に創立した伝統ある私学。その恵泉女学園は「自由学園」とともに、GHQの民間情報教育局(CIE)の内部文書で、「最も優れた女学校」と評価されました。双方ともキリスト教の精神に基づく学園です。
「自由学園」は、八戸出身の羽仁もと子と経営感覚に優れた夫吉一が旧雑司ヶ谷(西池袋)の地に1921年創立されます。「教育を詰め込みから解放したい」という熱い思いで誕生した自由学園は、かつて私の上司で、国際派の故犬伏茂之氏が学んだユニークな学園です。彼は流ちょうな英会話と幅広いネットワークで、私の海外活動をいつも助けてくれました。計算機のメカニズムを解説する『わが友石頭計算機』という素晴らしい絵本を安野光雅画伯と作り、DX時代を真に予見した傑物でした。
「自由学園」は現在東久留米市にあります。1925年武蔵野鉄道(現西武池袋線)沿線久留米村に羽仁夫妻は、土地を10万坪購入し、「学園町」と名づけた7万坪の宅地を分譲した資金で、武蔵野の自然の懐に抱かれる3万坪に理想的なキャンパスを作ります。「平成の名水百選」に選ばれる南沢湧水群を源流とする立野川がキャンパス内を流れています。
立冬を過ぎた晴れの日、学園OGでもある事務長の赤木博子さんがキャンパスを案内してくれました。神から与えられたがゆえに誰も犯すことができない「自由」と、ウェルビーイングと同義の「生活」をキーワードとするアカデミアです。味もそっけもない詰め込み教育を排し、今求められている食育・環境教育・実践教育の理念が、すでに創立当初からあったのに驚きです。
時代を経たアカマツやメタセコイヤが、起伏のある武蔵野の面影を残した雑木林に映えるキャンパス。広い芝生に浮かぶ女子部の建物を中心に、帝国ホテル旧館の設計で有名なフランク・ロイド・ライトの高弟遠藤新たちが設計した校舎群が幾何学的美しさを保っています。温かみのある大谷石がいたるところに使われ、帝国ホテル旧館の趣を彷彿とさせます。ちなみにライト自身が設計した校舎、「自由学園明日館」は今も見学者が絶えません。
幼稚園から大学部生まで含めて808人の極めて小規模の一貫教育の学園で、「手塩にかけた教育」が実践されています。男子と女子に分かれる中等科と高等科は、2024年「共学化」します。この自由学園という100年以上の伝統に輝く貴重な「ミクロアカデミア」にもっと世間は注目し、もっと持続可能性に手を貸すべき時かもしれません。

緑に染まった大芝生の向こうに、ライト風の垂直窓の「女子部食堂」と校舎。立派な松と欅が見事に生える。

女子部食堂の内部。木材をふんだんに使ったシンメトリーを基調とした建築デザインが学園生の美的感覚を自然に研ぎ澄ます。

炊事室で自分たちが頂く昼食を、慣れた手つきで準備する学園生たち。「生活(ウェルビーイング)」の教育を重視する自由学園の素晴らしい伝統の一つ。

青空に映えるフランク・ロイド・ライトが設計した「自由学園明日館」。池袋文化の象徴でもある。池袋駅近くの高層ビル群が見える。
その38 (2023年11月1日)
1889年、かつて天領であった廻り田村、野口村、久米川村、南秋津村、大岱村の5村は合併し「東村山村」になりました。そして1964年に「東村山市」になります。
「村山」の名前は、平安時代からこの周辺を支配していた「村山党」にちなんでいます。この一党の末裔は鎌倉時代に畠山重忠、さらに鎌倉幕府打倒をめざす新田義貞、そして豊臣秀吉によって滅んだ小田原北条一族の氏照につかえます。府中や鎌倉を貫く「東山道」、「鎌倉街道」が通るこの一帯の地名、入間市の金子、宮寺、川越市の仙波、所沢市の山口などに居館の名残があります。武蔵村山、東大和もこの一党の支配地でした。
東村山の道路は狭い上に曲がりくねり、自動車での移動に苦労します。「電車の駅がいくつもありますから、ここの人たちは車で移動する必要を感じなかったから」と東村山ふるさと歴史館の鈴木貴之さんは苦笑しながら解説してくれました。確かに西武国分寺線、西武多摩湖線、西武新宿線、西武西武園線、西武山口線が走りますし、北東方向に向かってJR武蔵野線が走り、西武池袋線が清瀬側の隅っこを通ります。
多摩湖に向かっていくつもの路線が伸びているのはなぜでしょうか。所沢市にある遊園地と競輪場といった娯楽施設へ都心からのアクセスを容易にして、貴族のような楽しみを「庶民にも提供したい」という西武王国の総帥堤康次郎の願いと無関係ではありません。(旧)西武鉄道と堤が経営する武蔵野鉄道、そして食糧増産の3社を1945年に合併させ、今日の「西武鉄道」にまとめ上げます。
康次郎は息子たち清二と義明を使い、永遠のライバル東急総帥の五島慶太とその息子昇とのデパート戦争(東急の金城湯池渋谷に、西武百貨店、パルコオープン)、リゾート開発では「伊豆箱根戦争」を繰り広げます。苗場スキー場やプリンスホテル、西武ライオンズ、そして西武百貨店池袋本店やパルコと、息子たちは、「競い合いながら」王国を築いてゆきます。この一直線のビジネス成長モデルでは東急側も負けていません。しかし、両社とも早々と創業家の手を離れることになります。東急は昇の死後に後継者をめぐってひと騒動。西武は有価証券の虚偽報告で義明の逮捕と退場、バブル崩壊による清二の金融破綻です。池袋から「文化を発信」していた西武本店は、後にセブン&アイ・ホールディングスに買収された挙句、今度は地元の反対空しく外資に転売される憂き目にあっています。
秋晴れの一日、多摩湖を一望できる西武が経営する掬水亭から遊園地に向かいました。平日なので客はまばら。丘の上にレトロな映画看板と植木等の歌謡曲が「西武全盛時代」を偲ぶようにこだましています。そこからかつて「村山ホテル」があった場所を予想して多摩湖駅のほうに向かったのですが、見つかりませんでした。大岡昇平の『武蔵野夫人』で、道子と勉が嵐を避けて一夜を過ごしたホテルです。道子の死は、武蔵野の面影が都市化によって失われる隠喩でした。西武山口線のターミナルの先にある西武ライオンズの活躍で沸いたドーム型球場は西武ではなく、ワインの通販ビジネスで有名なベルーナの社名がついています。ドームには牙をむく白いライオンの彫塑が。立身出世の権化、堤康次郎の意地と嘆きを象徴しているようです。栄枯盛衰は世の常。しかし夜空に輝きをもって舞う一本の彗星のように、あまりにも短い興亡であったと思います。

東村山市の多摩湖駅と埼玉県所沢市の西武球場前駅間を結ぶ案内軌条式鉄道(AGT)は「レオライナー」の愛称。往年の西武ライオンズファンの思い出が詰まっています。

西武線を走った引退車両と大観覧車。遊園地はレトロな雰囲気が辺り一帯を支配しています。それと、入園者が少ないのが気になります。

かつては「西武ドーム」と呼ばれ、全盛期の西武ライオンズの選手たちが優勝をかけて戦っていた白銀色のドーム型球場は「ベルーナドーム」に改名しました。


