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会長談話室

~ときの流れ、まちの風~

 美しい多摩川フォーラムの細野助博会長が、時には多摩川の上流から下流までを実際に訪ね歩き、地域に残る歴史・文化や環境問題、多摩づくりについて等、その時の想いを綴ります。

 月に1回くらいのペースで更新していきますので、お楽しみに!

【細野会長 プロフィール】

 日本の経済学者。中央大学名誉教授。財務省財政制度等審議会前委員。専門は産業組織論、公共政策論、コミュニティ政策、都市政策論。
 新潟県出身。慶應義塾大学経済学部で加藤寛に師事。同大学院経済学研究科修士課程修了。筑波大学大学院社会工学研究科都市・地域計画専攻博士課程単位取得満期退学。

 日本ユニバック(現日本ユニシス)研究員帝京大学助教授などを経て、中央大学総合政策学部、大学院公共政策研究科教授。1997-98年メリーランド大学客員教授、2007年から中央大学院公共政策研究科委員長。2019年退任、名誉教授。

 GS1 Japan 評議員会議長、日本酒蔵ツーリズム推進協議会会長、日本公共政策学会元会長。(一社)日本計画行政学会元会長。多摩ニュータウン学会名誉会長。学術・文化・産業ネットワーク多摩専務理事。

 『東京二都物語』(編著、中央大学出版部, 2019年)等、多数。​

会長プロフィール

その33    (2023年6月1日)

 世田谷の地名は、一説では大化の改新の頃の勢多郷にちなむと言われています。この地が本格的に栄えるのは、名流足利氏の流れをくみ、南北朝時代に「奥州管領」を拝した奥州(あるいは武蔵)吉良氏が「世田谷城」を居城とした頃。江戸時代には、本家筋の三河の東条吉良家が「高家」の待遇を受けます。しかし有名な「赤穂事件」でお取りつぶし。幕府は、蒔田と名乗っていた奥州吉良氏に「吉良」の姓を継がせます。やがてこの地は彦根藩世田谷領となります。世田谷城址に近接する寺は1480年世田谷城主吉良政忠が建立した「弘徳院」が始まりですが、1659年に領主井伊直孝没後に彼の法号にちなみ「豪徳寺」と改称され今に至ります。


 冷たい雨が降るある日の午後、豪徳寺へ行こうと自宅を飛び出して京王線「下高井戸駅」へ。そこから東急世田谷線に乗り換え「宮の坂駅」下車。閑静な住宅街の中を5分ほど歩いて到着した山門の先には1677年建立の仏殿。その屋根の梁には井伊家の家紋を中心にのぼり旗の紋章が左右一対で輝いています。井伊家と言えば、大河ドラマ『花の生涯』(作舟橋聖一、脚本北条誠)は彦根第15代藩主井伊直弼が主人公。直弼役に尾上松緑、他に佐田啓二、淡島千景を脇に配したNHK渾身の大作です。「五社協定体制」崩壊の種を作ったこの配役で、世は映画からテレビの時代に。

 その世田谷周辺は渋谷から横浜にかけて沿線開発を積極的に進めた東急グループ総帥五島慶太が、畑作地を高級住宅地に変貌させます。彼は鉄道省を飛び出し、阪急小林一三のアイディアと渋沢栄一の「田園都市構想」を支えに、文化度の高い沿線開発を目指したのです。


 私のゼミ生が第30代の駅長に就任したこともあり、久しぶりに田園調布駅を訪ねました。婚約時代に家内と田園調布のうっそうとした樹木に囲まれた宝来公園あたりをよく散歩し、栄一の四男で田園調布開発の先導役だった秀雄が、欅の大木が林立する屋敷の畑で黙々と農作業にいそしむ姿を度々みかけました。しかし由緒ある街並みも相続税で根こそぎ破壊される酷税日本。ですから、50年の経過でその面影は跡形もなく消え去っていました。


 郊外と都心をつなぐ「田園都市線」の二子玉川駅は、現在多摩川にはみ出したホームが特徴です。駅北口に1969年玉川高島屋SCが進出。SCのトップランナーとして厳しい淘汰の波にも泰然としています。まさに、二子玉川駅にたくさんの人を吸引するランドマークです。


 時代は進み「時間」が重視され、郊外=ベッドタウンの図式も見直されてきています。東急は駅の南側の旧遊園地跡11.2haを、新しい郊外型ライフスタイルを提案するマルチ・コンプレックスの「二子玉川ライズ」として再開発し、玉川高島屋SCとの相乗効果を狙います。低層のSC、3棟のタワーマンション、楽天の本社ビル・ホテルなど2つのオフイス棟、イベント会場にもなるオープンスペース、そして環境教育も可能なビオトープなどを配置。ウイズ・コロナ時代の現在、この再開発が「進化した郊外」の切り札になるかどうかが試されています。

豪徳寺

徳川譜代大名の格式が感じられる豪徳寺の境内。

彦根藩井伊家の家紋「橘」とのぼり旗の紋章が仏殿を飾る。

旧田園調布駅舎

旧田園調布駅舎と駅長さん。私のれっきとしたゼミOBです。亡き妻との婚約時代の思い出の場所でもあります。

玉川高島屋SC

王者の風格漂う玉川高島屋SC。

SC冬の時代になっても淘汰されはしない。

楽天本社

郊外の「エッジシティ」、新しいライフスタイルを提案する「二子玉川ライズ」。

楽天本社がそびえる。

談話その33

その32    (2023年5月1日)

 ベラスケスの『ラス・メニーナス』(1656年)は、国際的な名画でカメラのスナップ写真のような絵画の元祖。そしてカメラの発明は、印象派や抽象画が生まれる画期的な出来事でしたが、「活動写真」(映画)の道も切り開きます。さらに絹と化学の街フランス・リヨンに住むリュミエール兄弟が発明した「シネマトグラフ」は、1台で撮影・現像・映写ができる当時としては画期的な装置でした。
 

 ところで邦画の黎明期を支えた「松竹蒲田撮影所」は1920年蒲田駅の近くに誕生。そこで「蒲田モダニズム」を先導した脚本家北村小松と監督小津安二郎が活躍します。映画史の金字塔『マダムと女房』(1931年)は北村の脚本で生まれますが、トーキー映画なのに周囲の雑音が録音されるため36年に撮影所は大船に移転。大船移転と原節子の登場は小津を活躍させます。『東京物語』(1953年)は確かに世界的評価が高いのですが、私は『晩春』(1949年)の原節子と三宅邦子の丁々発止が好きです。小津は役者のセリフよりローアングルで撮影される映像美がずっと重要と言い続けます。監督作品のモチーフは、「都会への憧れと、戦後を引きずる別れの寂しさ」です。それが日本中の共感を呼びました。


 撮影所跡に近い大田区役所に4月13日(木)、退任間近い松原忠義区長をお訪ねしました。当フォーラムに対する数々のご支援に対するお礼のご挨拶です。23区で人口は3位、面積は一番大きな大田区。そのまちづくりと将来の方向付けをした「壮大なビジョン」をご説明下さいました。米国の著名な都市計画家ケヴィン・リンチの分析枠組(道・境界・街区・結節点・目印)を巧みに使い「大田区の骨格」の説明から始まります。JR京浜東北線で街区は東西に二分されます。西の代表は、渋沢栄一が開発した高級住宅地「田園調布」。東の代表は、国内外に開かれた空の玄関「羽田空港」。


 空港周辺を中心とした開発でヒト・モノ・カネ・情報の流出入を自在にコントロールする「臨空都市」あるいは「ゲートウェイ都市」としての構想が光ります。多摩川の左右に広がる国際戦略港湾である京浜港の国際コンテナ物流施設をつなぐ「多摩川スカイブリッジ」も完成し、自動運転のバスやロボットレストランなどの社会実験が進む「羽田イノベーションシティ」も完成間近。また藤田医科大などと連携し、先端医療の研究とサービスの国際戦略も具体化を進めています。極めつけは、JR蒲田と京急蒲田を「新空港線(蒲蒲線)」でつなぎ、東急多摩川線ともつなぐことで川越から羽田空港への最速ルートが構想から実現に向けて動き出しました。文字通り、埼玉・神奈川の結節点になるのです。


 かつては、光学と化学と音響学の見事なコンビネーションで生まれた「活動写真」製作のリーダー。そして現在は、国際ゲートウェイシティとして歩み出した大田区。そのダイナミックな動きを多摩川は北西から南東に向けて「境界」として応援しているようです。

ラス・メニーナス

ディエゴ・ベラスケス『ラス・メニーナス』

(プラド美術館蔵)の一部。女官たちと犬。

カンバス側にベラスケス本人と後ろの鏡に国王夫妻。

PiO PARK内展示スペース

羽田イノベーションシティにあるPiO PARK内の

展示スペース。イベントスペースも用意。

『松竹橋』親柱と欄干のレプリカ

大田区民ホール・アプリコの前庭にある

映画『キネマの天地』に使用された

『松竹橋』親柱と欄干のレプリカ。

国際線ターミナル

国際線ターミナルに飛行機。そして右側に

多摩川スカイブリッジ。空と陸内外の

ロジスティクスのハブに。

談話その32

その31    (2023年4月3日)

 経済学の父アダム・スミスはダイヤモンドと水を使って「価値のパラドックス」を説明します。これは使用価値と交換価値の違いなのですが、交換価値で見るとダイヤモンドが水より圧倒的に高いのですが、誰とも会わない炎天下の砂漠ではどうでしょう?ダイヤモンドは役に立ちませんが、水は貴重ですね。水と「お米」では、このパラドックスは成り立ちません。


 というわけで、豊臣政権から徳川政権への移行期に検地による「石高制」が本格化します。土地の価値をお米の収量で決めて、諸大名に課す負担や幕府役職の任免を円滑化。やがて石高も幕府公式で家格を表す「表高」と、新田開発や検地の徹底で決まる実質の「内高」とが乖離します。全国各地で新田の開発が始まりますが、水量は天候に左右され、とくに関西のように降雨の少ない地方では水争いが頻発します。


 二ヶ領用水は江戸に転封された徳川家康の命で代官小泉次太夫が差配し1597年測量開始、その後開削し14年の歳月で完成した用水です。名前の由来は川崎領と稲毛領にまたがるから。用水としては日本を代表する長い歴史を誇ります。川崎市多摩区から幸区までの全長32kmの用水ですが、川崎の工業地帯としての発展から、やがてその一部は工業用水としても活用されます。今は上河原と宿河原の2か所の堰を設けて取水しています。ところが1974年、多摩川の水を二ヶ領用水に取り込む二ヶ領宿河原堰の設計ミスで堤防が決壊し対岸の19棟の家屋が流出します。ただし現在の二ヶ領宿河原堰は、二度とあのような事故が起きないように設計されています。


 まだ桜の花が3分咲きの春うららの午後、二ヶ領宿河原堰のある「二ヶ領せせらぎ館」にNPO法人「多摩川エコミュージアム」五十嵐代表理事、かわさき水辺の楽校安立校長のお二人を訪ねました。お二人に二ヶ領用水を船島橋から八幡橋までぶらぶら歩きながら用水の脇を小一時間ほど案内していただきました。宿河原から引いた水は傾斜がありますから、水中のマコモを揺らしながら下流に向かってどんどん流れてゆきます。その水面に桜の花が映り、春の日がキラキラ光を反射させます。川崎や蒲田に用のある時使っている南武線ですが、宿河原駅から用水が並行しているとは知りませんでした。対岸にある狛江側の河川敷では、スポーツなどに興じる人たちがいますが、川崎側の河川敷には釣り人以外、人はまばら。深い淵が続くので安全上の配慮でしょうか。


 八幡橋を過ぎて用水の水は南下を続け、やがて久地にある「久地円筒分水」に注ぎこみます。昔からここの「久地分量樋」で久地堀、六か村堀、本流の川崎堀、根方堀に分水されていましたが、当初は水のコントロールがうまくいかず「水争い」が度々起こったようです。漸く1941年、農業水利改良事務所長の平賀栄治により平瀬川の改修をもって、「円筒分水」によって正確に4本の堀への分水が可能になります。この分水技術は戦後、GHQの土木技師を通じて米国にも紹介されるほどで、現在この方式は全国に100数か所採用されています。「久地円筒分水」は1998年国の登録有形文化財、そして「二ヶ領用水」は2020年国の登録記念物に指定されました。

二ヶ領宿河原堰

二ヶ領宿河原堰から対岸和泉多摩川の

「狛江古代カップ多摩川いかだレース」会場が。

二ヶ領用水

二ヶ領用水の水は、平瀬川と合流し一部は多摩川へ。

日当たりが良く桜が満開。

久地円筒分水

「久地円筒分水」はちらほら咲き出した桜と

満開の菜の花で彩られ、近隣住民の憩いの場。

二ヶ領用水の桜並木

二ヶ領用水に沿って桜並木が延々と続く。

3分咲きというところか。

談話その31

その30    (2023年3月1日)

 地球の営みが大地の恵みを生んだのでしょうか。約2500万年前にアジア大陸から分裂したのが日本列島の始まり。1000万年かけてほぼ現在の位置に移動しました。時計回りに、北米プレート、太平洋プレート、フィリピン海プレート、ユーラシアプレートの計4枚のプレート上に日本列島があります。活火山がプレートのへり近くに列をなし、マグニチュード6以上の大地震の数では地球全体で10%も集中する「変動帯」なのです。太平洋プレートの強い圧力は、東日本に逆断層の高い山を作り、フィリピン海プレートの動きを方向転換させ西日本に「中央構造線」といった横ずれ断層を作りました。


 平らな土地が少なく急峻な山に囲まれた日本列島。山から海までの距離はありませんから、台風などで川が暴れたら、なすすべもありません。西洋の常識からすれば、日本のほとんどの川は通常の流れでも「滝」かもしれません。例えば信濃川(長野県側は千曲川と呼びます)の河川勾配はセーヌ川の10倍です。勾配がきつく流れが速くなりますから、地中の鉱物をゆっくり含む暇もありません。日本の川はカルシウムなどの含有が少ない軟水、ゆっくり流れる欧州の川は硬水。軟水は、昆布(グルタミン酸)、鰹節(イノシン酸)、椎茸(グアニル酸)などの旨味成分をしっかりと取り込み旨い出汁を作ってくれます。硬水では昆布の旨味成分を十分に抽出しません。つくづく日本に生まれた幸運に感謝しなければと思います。


 ということで、「袖ひじて結びし水のこほれるを」溶いてくれるはずの立春を過ぎても、まだ寒風が吹きすさぶ奥多摩へ。まず奥多摩町が管理する海沢(うなざわ)試験圃というわさび田に。手が切れそうな冷たい沢水の流れる傍に生えているわさび菜をつまんで洗い食しました。何とも言えない清冽な香が口の中に広がります。旧海沢村の奥多摩わさびは、『武蔵風土記』にも紹介された昔ながらの名品なのです。


 実はこの時期の奥多摩をめざしたのは、30センチほどに成長した「奥多摩ヤマメ」のお刺身を、奥多摩のわさびと一緒に食したいから。このヤマメは奥多摩さかな養殖センターが開発した養殖魚です。大丹波の里にある東京食材を存分に使用する「釜めし なかい」に予約を入れる時、牧野養魚場の「奥多摩ヤマメ」も注文しました。坪庭の窓越しに寒さの中でもつぼみが若干開きだした梅の木を愛でながら、まず「サーモン色」の奥多摩ヤマメに舌鼓を打ちます。この時期ならではの新鮮さとひき締まったヤマメの身が、しゃきっとした大根のツマと一緒に色鮮やかに出てきました。皿の脇には、石ずりした天然わさびが可愛くのっています。川魚特有の臭みなどは一切ない、上品なごちそうでした。次に釜飯です。ごぼうと若干濃い口の醤油で味付けした新潟産米で炊いた釜飯は、串焼きした鳥の胸肉を乗せたこれも逸品。香ばしい香りが口の中に広がります。白菜としめじととり肉の薄味の汁がまた絶品。手づくりの刺身こんにゃくで口直しの後、最後のデザートは小豆の甘さが程よい小麦饅頭。お店は若手がしっかりと跡を継いでいるので、ここまで足を延ばすことが当分できそうです。

 途中で吉野梅郷の開きかけの梅の花を見、河辺駅前の天然温泉ですっかり冷え切った体を温めて帰路につきました。

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牧野養魚場のある海沢谷。

2019年10月12-13日の台風19号で

その橋梁を飛び越す濁流。

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収穫の終わったわさび田(海沢試験圃)。

手が切れそうな冷たい沢の水が流れる。

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奥多摩さかな養殖センターの生け簀。奥多摩ヤマメの

種苗が河川漁協や養殖漁協に供給される。

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早春の大丹波の里。「釜めし なかい」

の窓から見える庭の梅の木。

談話その30

その29    (2023年2月1日)

 江戸時代の日本橋は、東海道という大動脈で商流・物流そして人流の起点でした。魚河岸も、金座や三井両替店、同呉服店などの大店もあるお江戸100万都市の要。西に向かって7つ(午前4時頃)立ちし、漸く朝を迎えるのが、日本橋から約2里(8キロ)の品川宿・高輪あたり。提灯の明かりを消して約2里少し歩くと、六郷川(多摩川下流域)のたもと。そこに架かる六郷大橋は日光街道の千住大橋(現墨田川に架橋)と並び称される大橋。長さ約200米、幅7米の大橋ですが、多摩川の異名は暴れ川ですから何度も流されて、1689年幕府は架橋を諦めて六郷の渡しを舟で往来することにします。その対岸の船着き場が川崎宿。歌川広重の大ベストセラー版画「東海道五十三次之内」全55枚の一枚「川崎」。構図のなんというすばらしさ。右に真っ白な雪を頂く富士山、左に宿場町。板葺き、茅葺の平宿・飯盛宿、そして農家が混在しています。穏やかな六郷からの渡し船の乗客の男女はキセル煙草を嗜んでいます。川崎側は、まったく「対照的」。緊張感がみなぎる番所や江戸屋敷に向かう武士とコメなどの荷駄を運ぶ馬が描かれています。


 川崎宿に入ると、「万年屋」の有名な近海魚と野菜で炊き込んだ奈良茶飯は、現在おこわで再現中。旧東海道筋にある「東海道かわさき宿交流館」は、万年屋を模した室内を入口に配し、2階には江戸時代の宿場を忠実なジオラマ展示。そこから約1キロ西の京急線八丁畷駅近くに芭蕉の句碑があります。1694年5月、体力の限界を自覚した松尾芭蕉は、「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」と詠み、江戸の俳人仲間・弟子たちと別れ故郷伊賀へ。5年前の1689年5月、「芭蕉庵」のある深川から船で千住に向かいます。「月日は百代の過客にして」で始まる芭蕉と曾良の『奥の細道』紀行。きっと1594年架橋の千住大橋も眺めたはずです。このときも死を覚悟し、門人たちと団欒の宵越しをするのですが、「行く春や 鳥啼き魚の 目は涙」と最初の句が詠まれます。知人、門人は言うに及ばず、鳥や魚までが私の出立を悲しんでいると。
 

 「魚」ついでに、このフォーラムの代表的事業でもある「多摩川子ども環境シンポジウム」の主宰者で、運営委員の故山崎充哲さん(通称 山ちゃん)を語らなければなりません。彼が創設した「おさかなポスト」は、飼い主から捨てられた魚や亀など水生動物を自宅の生け簀や水槽で飼育し、里親を募集するシステム。また環境教育の講演教材とするソーシャルビジネス「ふれあい移動水族館」として、多摩川両岸の小中学校に軽自動車で実際に運び、規模と予算に応じた教育プログラム提供がウリです。「コロナ禍になる前は、熱心な学校からの引き合いは多かったのですが、コロナで開店休業。漸くぼちぼち増えつつあります」と、彼の後継者で運営委員を引き継いでくれた愛柚香さん。親御さんの実家がある山紫水明の兵庫県姫路市で早くから釣りに目覚めた山ちゃんは釣り具メーカー「がまかつ」に就職。しかし、「泡立つ多摩川」、開発に伴う環境破壊に憤り、環境影響調査会社を設立した熱血漢。事業で蓄えた資金で「おさかなポスト」を。ビジネスよりもボランティアに近いのですが、彼は真剣。「多摩川子ども環境シンポジウム」への情熱へとつながります。

 

 彼が良く通った多摩川べりを京王相模原線の電車が走ります。ずいぶんきれいになった多摩川を天国からきっと笑顔で観察していることでしょう。

東海道五十三次之内

歌川広重作画「東海道五十三次之内」から「川崎」。

両岸の対照的情景が見事に描かれている。

旧東海道

江戸に向かってまっすぐ伸びる旧東海道。

宿場町の中間にある「東海道かわさき宿交流館」

松尾芭蕉の句碑

もう江戸に戻ることはないと

惜別を詠んだ松尾芭蕉の句碑。

多摩川の岸辺

「山ちゃん」が愛した多摩川の岸辺。

京王相模原線橋をいつものように電車が通る。

談話その29

その28    (2023年1月4日)

 1938年12月にドイツの科学者がウランの核分裂で放出される莫大なエネルギーを利用する核爆弾の可能性を示唆しました。その知らせを聞いたアインシュタインはじめユダヤ系亡命科学者達は、ナチスドイツとの核兵器開発競争で米国が勝利することの重要性をローズベルト大統領に進言します。亡命し、その地に永住を決める人たちを「ディアスポラ」といいます。ノーベル賞受賞者アインシュタインの他、「マンハッタン計画」を主導したフォンノイマン、フェルミ、シラード、ウイグナー、テラーなどの物理学者がその代表でした。そのうちの何人かは核の使用に反対しましたが、広島・長崎の悲劇を生みます。彼らの優れた頭脳が科学技術に新風を吹き込み、戦後米国を並ぶべきものなき覇権国家に押し上げてゆきます。
 

 日本の古代にもディアスポラがいました。中国の東北部から朝鮮半島にかけて約700年間栄えた高句麗は、唐・新羅と戦い668年に滅亡します。中国から度々受ける圧力や半島内の不安定な政情に失望した王族も、安寧な生活を求めて海を渡り、島を伝って九州に渡来。「ディアスポラ」としての渡来人は、畿内から全国各地に移住してゆきます。仏教や律令制など、高度な哲学や統治の手法に始まり、軍事、機織り、土木技術といった才能・技術をこの島国に広げました。


 関東の地(武蔵国)に高麗郡・新羅郡ができますが、多摩郡狛江郷に渡来人につながる刑部氏の一族が畿内河内国から移住と『続日本後記』にあります。狛江郷は今の狛江市より少し広いのですが、旧野川・旧入間川、そして多摩川沿いに高麗人など渡来人が台地縁辺に移り住んだと思われます。「弁財天池遺跡で縄文時代以降の集落跡も出土していますが、6世紀ごろの痕跡がなく謎だらけです。」と狛江市教育委員会の宇佐美さんは熱心に説明。狛(こま)と高麗(こま)。何か語呂合わせのようですが、古代からの悠久なロマンを感じます。ロマンと言えば万葉集の東歌が「多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき」と、みずみずしい肢体で麻の布を多摩川にさらす若い娘のかわいらしさを謳っています。その歌碑が大正年間に渋沢栄一の奔走で多摩川河畔に建てられました。


 極めつきは、狛江の地から出土した「和泉式土器」を模したカップが贈呈される「狛江古代カップ多摩川いかだレース大会」でしょう。狛江市制20周年記念イベントとして1990年に開始。一回だけの予定が今年で30回目。イベントの継続には、「涙と汗と情熱と協力が必要なんです。だから市単独ではなく、市民の皆さんを巻き込んだ実行委員会で運営しています」と、狛江市OBの小川さん。開催日を7月24日に迎えました。ダニエル・カールさんが恒例の「山形弁風?」選手宣誓。当日は日焼け間違いなしの「晴天」。私も老体に鞭打ち出場し、一生懸命に筏を漕ぎましたから、ゴールの後の狛江産クラフトビールがうまかったこと。でも翌々日は筋肉痛。


 ゴールの近くに「多摩川決壊の碑」。1974年9月1日、台風16号で多摩川には川上から大量の濁流。二ケ領宿河原堰堤でこの流れが滞留し、狛江側堤防を決壊させ民家19棟が倒壊・流出。堤防決壊と家庭崩壊という二重の悲劇を見事に描ききった『岸辺のアルバム』はTVドラマの金字塔に。古くから多摩川をめぐる人間と自然が織りなす喜びと悲しみが狛江に詰まっています。

万葉集歌の碑

多摩川で麻布を真っ白になるまで

さらす乙女と澄んだ多摩川の水。

そのみずみずしさを謳った万葉集歌の碑。

狛江古代カップ

白布さらした可憐な乙女は

「狛江古代カップ」を高らかに掲げる乙女に変身

美しい多摩川フォーラム号

「美しい多摩川フォーラム号」乗船者の平均年齢は? でも元気いっぱいで特別賞を頂きました。

多摩川の「ヤヌスの顔」

滔滔と流れる美しさと、暴れ川の異名を決して

捨てはしない多摩川の「ヤヌスの顔」。

これこそが関東を代表する大河の個性。

談話その28

その27    (2022年12月1日)

 明治天皇を頂点とする日本は、富国強兵で欧米列強と対峙できる実力国家を目指します。禁裏でなじみの公家たちに囲まれて花鳥風月という伝統的な生活とは真逆の厳しい多忙な生活が東京で待っていました。そのような中、ひと時の息抜きのために多摩の地域が選ばれます。天皇は多摩をこよなく愛し、アユ釣り、ウサギ狩り、そして花見を楽しまれます。


 多忙な天皇を支えたのは、賢夫人の誉れ高い皇后美子様。皇后は1871年11月9日、皇居に岩倉使節団と同じ船で海外留学する娘たちを激励しようとお召しになります。山川捨松、永井繁、津田うめ(のち梅子)、他に健康を害し志し半ばでやむなく帰国する2人でした。捨松は米国最古参の女子大バッサー大学の並みいる才媛を押さえ見事首席で卒業。繁は日本海海戦で活躍する軍人瓜生外吉に嫁ぎ、一足先に帰国し音楽教育に。梅子もワシントンDC郊外の女子高をトップの成績で卒業。


 捨松と梅子の二人は「科学と文明の世が来た。女だからと耐え忍ぶ人生なんてまっぴらよ」と近代日本の扉を一生懸命こじ開けようとします。しかし、意気揚々と帰国した彼女たちに母国が用意した待遇は「期待外れのもの」。捨松は3人の子持ちの陸軍卿大山巌の後妻に。梅子は華族女学校の教職をなげうって生物学を学びに再留学し、帰国後に今の津田塾大学を創設。捨松は「鹿鳴館の華」として「不平等条約改正」に努力し、日本女子大の創設にも一役買いますが、「スペイン風邪」に感染し惜しくも亡くなります。


 輝かしい明治の時代は過ぎ、大正・昭和へと時代は移ります。岩倉使節団団員でもあった宮内大臣の田中光顕は、国威発揚を目的に1930年「多摩聖蹟記念館」を作ります。この聖蹟の地、連光寺に軌道を通す一大事業は素封家富澤政賢達に委ねられました。孫の富澤政鑒は奇しくも多摩村村長、初代町長、初代市長を1年間で経験します。1971年の多摩ニュータウン誕生に立ち会ったからです。


 多摩川河畔の聖蹟桜ヶ丘に京王電鉄は本社を置きます。多角化の一環として1962年に平均100坪区画の瀟洒な住宅を駅向かいの高台に「聖蹟桜ヶ丘団地」として分譲します。日本経済が上り坂にある時期、都心で働く一線サラリーマン層がこぞって買い求めます。


 この団地はアニメ監督宮崎駿の『耳をすませば』の舞台。評判の「アニメの聖地」になりました。オリビア・ニュートン=ジョンが可憐に唄う『カントリー・ロード』にのって、多摩川を渡る京王線電車といろは坂から見える聖蹟桜ヶ丘の夜景から物語は始まります。いろは坂公園には中学生の主人公月島雫が良く通う架空の図書館。そして、ロータリーには「地球屋」という架空の雑貨店。主人公達の青春特有の淡い恋と進路への迷いと悩みが、「いろは坂」や「ロータリー」を舞台に展開します。明治の世に、捨松、繁、そして梅子が時代と運命に葛藤し抗いながら生きる姿が昭和の世に二重写しになります。


 大阪の大学を辞して多摩ニュータウンに住みだした若き頃、私は助手席に今は亡き妻、後部座席に三人娘を乗せ、クリスマス商戦でわく「せいせきショッピングセンター」によく通いました。その途中の「いろは坂」をまるでジェットコースターに乗っているように運転して娘たちは大はしゃぎ。「雪降れば 駒にくらおき 野に山に 遊びし昔 思い出でつゝ」。これは明治天皇の最晩年の御歌です。「思い出でつゝ」を詠み終えた時、妻との楽しかった日々を思わず重ねていました。

多摩聖蹟記念館

大きなクスノキが時代の経過を教えてくれる

「多摩聖蹟記念館」

富澤政賢旧宅

多摩中央公園に移築された素封家富澤政賢旧宅。

彼は多摩と都心を結ぶ京王線の実現に尽力した実力者。

いろは坂

「耳をすませば」の主人公雫が良く通った

「架空の図書館」がこのいろは坂に。

聖蹟桜ヶ丘駅周辺

「いろは坂」からビルに囲まれた

多摩川河畔の聖蹟桜ヶ丘駅周辺を見る​。

談話その27

その26    (2022年11月1日)

 調布はかって「映画のまち」でした。多摩川べりには2つの映画撮影所があります。調布南高の隣に角川大映スタジオ、さらに南に下ったところに日活調布撮影所。前者は元日活多摩川撮影所。調布撮影所の入り口に「創立110周年」の垂れ幕があります。日活は1912年創業の最古参の映画制作会社。1942年戦時統合で映画制作部門は大映に移管されます。

 戦後になっても、映画館経営と洋画、邦画の配給を生業としますが、堀久作というカリスマ経営者はそれに飽き足らず、東宝・松竹に無断で制作部門を立ち上げます。東宝、松竹、東映、大映、新東宝は「5社協定」で対抗します。反骨精神の塊のような堀は、5社から監督やスターを引き抜き、布田の荒れ地を買いまくって調布撮影所を完成させます。

 「アクションと青春映画」で日活の黄金時代到来。その立役者は石原裕次郎です。兄慎太郎の芥川賞作品『太陽の季節』が映画化されます。全国の父兄が「不良奨励映画」とレッテルを張れば張るほど宣伝効果がうなぎ上り。これでスタイル抜群の裕次郎は一躍トップスターに。その後、吉永小百合の爽やかな青春映画もヒットしますが、新興のTVに押され、やがて日本映画は娯楽の王座を降ります。歴史は繰り返すのか、今はTVがインターネットに押されています。

 

 堀久作が目の敵にした松竹には、映画『波の塔』があります。松本清張のミステリーで、下諏訪で偶然出会った青年に高級官僚の娘は好感を持ちます。彼は妙齢の女性と逢瀬を重ねる新米検事でした。娘は友達と深大寺を訪れた日、人目を気遣って散策する二人を目撃し心乱れるのです。その後運命の皮肉の糸はもつれにもつれてゆきます。妙齢の女性の夫は疑獄事件の張本人。人妻との逢瀬を役所に通報され新米検事は出世の階段から外され、彼に思いを寄せる娘の父は汚職の嫌疑をかけられ逮捕されます。さて、妙齢の彼女と青年のその後は?

 

 深大寺は開創1300年にならんとする古刹ですが境内は案外と狭いので、人妻と逢瀬を重ねる姿を見かけても当然。国分寺崖線のハケから染み出した水は谷を作りますので豊富です。だから蕎麦を食べさせる名店が軒を連ねます。雨模様で寒さが一段と増す秋の一日、そのうちの一軒で温かいとろろ蕎麦と蕎麦がき、ついでに脂ののったアナゴの天ぷらを注文しました。やはり蕎麦は水が命。ハケがもたらす大地の恵みでした。

 

 深大寺から西に上ると、そこは調布飛行場。武蔵の森公園の林センター長さんと飛行場に詳しい金井さんにご案内いただきました。当初は内務省が民事用に計画した飛行場で、1941年に竣工し、羽田飛行場の3倍もある大空港でした。しかし戦中は陸軍が徴用、戦後はそこに隣接するように米軍に野菜を供給する農場も。先の東京オリンピックで移転を余儀なくされた代々木「ワシントンハイツ(米軍人住宅地)」が飛行場に隣接した「関東村」に。ここでアメリカ文化が開花します。戦時中米軍機から飛行機を隠すために使われた掩体壕の屋根を補強したのは多摩川の砂利でした。現在調布飛行場は多摩と島しょ部を「平和な空の道」でつないでいます。

日活調布撮影所

かつて一世を風靡した日活調布撮影所。

かまぼこ型のスタジオが往時の繁栄を偲ばせる。

深大寺の境内

修理中の茅葺屋根の山門と深大寺の境内。

境内の外には名代のソバ屋が風情を添える。

掩体壕

戦時に中学生も勤労動員されて作られた掩体壕。

これを強化したのは多摩川の砂利。

調布飛行場

グローバル都市東京には多摩と島しょの

魅力が不可欠。双方の思いを結ぶ「空の道」。

談話その26

その25    (2022年10月3日)

 多摩川は暴れ川の異名を取ります。数年前の台風で上流の鉄橋が橋げたもろとも流されました。府中から稲城に向かう府中街道に架かっている是政橋のあたりは例外的に浅瀬が続きます。昔から軍馬はこのあたりを渡河したのか、分倍河原古戦場もこの近く。1333年の5月16日、鎌倉幕府15万の大軍は緒戦に勝ったことから士気が緩んでしまいました。1万近い坂東武者達は「幕府の名運は尽きた」と見切りをつけ新田義貞に加勢します。まさに「時が義貞に味方」したのです。この闘いが鎌倉幕府崩壊のきっかけを作りました。大國魂神社と分倍河原古戦場、幕府の歴史が府中には揃っているのです。


 府中から是政橋を渡ると、そこは多摩ニュータウン。都や公団(後のUR)が南多摩丘陵を活用し手掛けた日本最大級2千9百ヘクタール弱の宅地開発は、多摩市諏訪永山地区(1970年)を皮切りに、八王子、稲城、町田へと順次拡張してゆきました。稲城は是政橋から続く向陽台地区が1988年、長峰地区が1995年、若葉台地区が1999年ですから、バブル絶頂期から崩壊期にかけて、多摩と八王子の開発の弱点を補う形で開発されました。
 

 稲城市域は多摩丘陵と、繰り返されてきた多摩川の氾濫が残していった礫や砂によって形成された沖積地で構成されます。武蔵国分寺跡で出土した瓦の一部は、大丸地区の「瓦谷戸」の窯で。また延喜式の神名帳に、穴澤天神社や青渭神社などの名が見られます。肥沃で水はけのよい沖積地は、梨や葡萄の名産地。梨は元禄年間に長沼村代官増岡平右衛門と川島佐治右衛門が京に上り「淡雪」という品種の苗を持ち込んだことからで、市内川島家に「多摩川梨発祥之地」の碑が残っています。


 訪れたのは9月の初旬。名物の「稲城梨」最盛期が終わって、豊水等が直売所に並べてありました。稲城で収穫される梨は現在100件余りの農家で延48ヘクタールの梨園で栽培されていると市の統計にあります。人気がとても高く、近隣の人たちが早朝から買いに来るのか、午後の2時くらいにはどの直売所も店を閉める繁盛ぶり。幸運なことに大ぶりの「稲城梨」を買うことができました。噂通り「とてもジューシーで甘ーい」梨でした。


 稲城の大丸地区で多摩川から取水され、大丸、長沼、矢野口を通って川崎の登戸迄流れる「大丸用水」は、江戸初期には開鑿され、現在でも重要な農業用水です。川崎市黒川に水源をもつ三沢川も、稲城の市域を通り多摩川に注ぎます。稲城地区の開発には雨水処理が大問題になりますが、現在の稲城中央公園の下からトンネルを掘り、川崎市内をバイパスさせてから直接水を多摩川に落とす「三沢川分水路」を都が建設して、ニュータウン開発の難題は解決しました。


 今やオールドタウンと揶揄される多摩ニュータウンですが、稲城市域では人口は今も増え続けています。高い崖と梨畑が京王相模原線から見える南の丘陵では、民間の宅地開発が進んでいます。新たな開発地では人口増加はまだまだ続くでしょうが、他方で平尾地区の初期の開発地ではやはり高齢化が進み、古くなったスーパーが撤退し出している現実もあります。多摩ニュータウンはじめ郊外開発には、人とまちの新陳代謝がこれからも大きな課題となって浮かび上がってきます。

是政の渡しの碑と是政橋

是政の渡しの碑と是政橋(府中市側)

多摩川梨発祥之地の碑

川島邸に残る「多摩川梨発祥之地の碑」
(画像提供:稲城市教育委員会)

穴澤天神社

穴澤天神社の裏手は中世の山城「小沢城」跡

大丸用水

豊富な水が流れる大丸用水

談話その25

その24    (2022年9月1日)

 欅(けやき)の大木が連なる並木道は、多摩・武蔵野を象徴する魅力的資源です。府中大國魂神社へ続く馬場大門の参道がその代表でしょう。夏は木陰を作って人々を歓待し、冬は木漏れ日で心を和ませます。

 河内源氏の流れをくむ源義家(八幡太郎義家)は、父頼義とともに前九年の役(1051~1062)を獅子奮迅の働きで見事に鎮めました。その帰途、康平5年(1062)戦勝祈願成就の報賽として、欅の苗1000本を大國魂神社に奉納します。

 彼が坂東武者に慕われたのは、その潔さと部下思いの精神からです。義家をもって「源氏ブランド」が誕生。神社に通じる参道に、先年、義家の銅像が建立されました。坂東武者達は、義家に発する「源氏ブランド」を信奉していたからこそ、平家追討を祈願する源頼朝のもとにはせ参じました。大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にはありませんが、頼朝と大國魂神社の縁は浅くはないのです。神社に残る「大絵馬」に、頼朝が大勝祈願する神社境内に坂東武者が寄り集まる光景が描かれています。さらに拝殿前の「矢竹の根」は頼朝の奉納と伝わります。頼朝のもとに坂東武者がはせ参じたのは、頼朝の貴種としての存在だけでは不十分。関西から流れ伊豆方面に居ついた北条家とは違い、比企や畠山という埼玉に根を張った坂東武者の絆は非常に強かったのです。ですから、彼らの加勢が無ければ鎌倉幕府も夢幻に終わっていたはず。ところが、その比企と畠山は北条時政の陰謀によって滅亡に追いやられます。後に戦国大名の北条氏康や上杉謙信、豊臣家を滅ぼす徳川家康もこの神社を崇敬し参拝します。

 府中市史編さん担当の英太郎さんが、絶妙な説明を間に挟みながら府中街なかを案内して下さいました。発掘の結果判明した武蔵国衙の規模は並大抵ではありません。現在の大國魂神社はその国衙の区画の南西端に位置しています。また律令時代に建てられた国司館跡は武蔵野線、南武線の「府中本町駅」に隣接。VR(仮想現実空間)眼鏡を活用して往時を偲ぶことができます。国司館があったばかりでなく、三つ葉葵のご紋入りの鬼瓦も見つかり、家康の屋敷も同地で確認。この屋敷跡は多摩川が削ってできた立川段丘の崖線上にあり、徳川家康も鷹狩りの拠点、あるいは西方の防御の拠点として、府中を重要視していました。多摩川が近くを流れ、甲州、川越両街道の結節地点であることから、秩父、奥多摩の材木や織物、そして品川から陸揚げされた陶磁器などの集散地でもあったのです。

 軍事・行政と経済の要衝として、また近世では多摩地域を代表する宿場町として、今は日本のエレクトロニクスを主導する企業の大規模事業所の集積地として。こうして、いにしえから現在まで連綿と府中の繁栄は続いているのです。そして忘れてならないのは、多くの人たちが口ずさむユーミンの『中央フリーウェイ』でしょう。西に向かって中央自動車道を進む車が府中を通過するとき、本当に「右に見える競馬場、左はビール工場」なのです。

 視察を終えた夏場の暑い一日。自分へのご褒美を兼ね、「サントリー〈天然水のビール工場〉」にダメもとで予約の電話を試みました。キャンセルが出たらしく、運よく工場見学が可能に。見学にセットされた三種のビールを飲み比べてすっかりほろ酔い気分に。ついでに、工場直送セットを自宅用に注文し帰途につきました。

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大國魂神社参道の欅並木。

暑い夏に日差し遮り、一時の憩いを与える。

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大絵馬「源頼朝旗上図」。大國魂神社の境内に集まる坂東武者にとって「義家ブランド」は最強。

四つ辻

歴史ある風情を残す高札場跡と中久酒店のある、

川越街道と旧甲州街道の面影残る四つ辻。

ビール醸造タンク

甘い香りを漂わせるビール醸造タンクと競馬場の高い監視塔。ユーミンの世界が広がる。

談話その24

その23    (2022年8月1日)

 国分寺崖線の多くのハケから流れ出す水は野川に注ぎます。論争好きの作家大岡昇平の『武蔵野夫人』は、男女同権を謳う新憲法との整合性から1947年に廃止された姦通罪をモチーフにしています。戦後間もない小金井旧家の広大な屋敷に住まう老夫婦。ヒロインは彼らの実の娘で、大学教授の夫とともに屋敷に同居。近所には戦争でしこたま儲けてきたお金第一の従弟と蠱惑的なその妻が住んでいます。そこに戦場で心をズタズタにされたもう一人の従弟が復員し家に身を寄せるところから、悲劇が本格化します。戦後間もなくの時代背景の中、男達の相変わらずの身勝手さ、心の準備もなく自由を与えられた女達の戸惑いが描写されます。


 この小説は1951年に巨匠溝口健二が監督し、後に保守派の論客となる福田恒存が脚本を書き映画化。ヒロインは往年の大女優田中絹代。森雅之、山村総、轟夕起子を脇に配し当然評判になりました。不実の夫に悩むヒロインをひそかに慕う従弟との悲恋が、武蔵野の風景の中に編み込まれます。澄み切った野川の流れで野菜を洗う農婦、姿見の池のほとりで畠山重忠と夙妻太夫(あさづまだゆう)の悲話を語る純真な従弟。池の周りを飛ぶ「蜻蛉」のようなヒロインの薄幸の人生への伏線ともいえます。


 『武蔵野夫人』の面影を探して、小金井公園桜守の会顧問伊藤正義さん、野川の環境保全活動に取り組む堀井光夫さんにご案内いただきました。伊藤さんのお力で車に乗ったまま広大な公園に入ります。ところで、武蔵野の面影を探して約1万5千本余の様々な樹木に覆われた小金井公園の前身は「防空緑地」。学徒動員された生徒には、桑畑や雑木林のでこぼこした台地を芝生や平坦な広場に変えるきつい仕事が命じられます。戦争の残酷さと人間の愚かさを原稿用紙のマス目に詰め込んだ大岡昇平は、この緑地をどう感じたでしょうか。小金井公園は彼が寄寓した場所からも近く、時には散策したはず。公園の隅っこに残る欅や椎の木等の喬木がうっそうと茂る雑木林、そして公園に沿って延びる農道に昭和の面影を感じました。


 さて、国分寺と小金井の境界線「鞍尾根橋」で流域の景観がはっきり分かれます。上流は三面張り柵渠。下流は植栽と親水を考慮。1997年の「河川法」大改正で、「最短で増水分は海に流す」という旧来の河川管理に、景観や環境保全、そして住民参加が法に組み込まれました。堀井さんにご案内いただいた中村研一記念はけの森美術館の中はまさしく武蔵野の森。庭にしつらえた井戸から滾々と湧き出る清涼な水。ヒロインと従弟の大学生が野川の水源を求めて訪れた場所かもしれません。葦や萱の生い茂る真夏の野川で、宿題も忘れて子どもたちは「河童に変身」して遊んでいました。


 下流から進む東京都の改修対象河川の上流部分30%は、まだ国分寺方面と同じく未着手のまま。改修には家の移転も絡まるため、地元との細かな利害調整が必要です。都市河川の治水事業は50年から100年を見据えた本当に息の長い事業なのです。

小金井公園

国木田独歩や大岡昌平が散策した武蔵野の面影。

それをかすかに残す小金井公園の雑木林。

中村研一画伯屋敷跡

中村研一画伯の屋敷跡の庭園。

この湧き水も野川の豊富な水量を支える。

野川

小金井を流れる野川はすでに景観も整い、

「新河川法」のメリットを享受。

国分寺側の改修は何時になるのか。

野川

野川で遊ぶ子どもたちは夏休み初日だから、

宿題忘れてすっかり河童に。

談話その23

その22    (2022年7月1日)

 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は若手・大物俳優を配した豪華なドラマです。中でも畠山重忠は凛々しい坂東武者の代表格。武蔵御岳神社に「赤糸威鎧」を奉納した彼には、居城畠山莊(現深谷市)から鎌倉に通じる宿場に愛しい傾城(遊女)がいました。相思相愛の二人に横恋慕するけしからん輩が、重忠は西国の地で戦死したと彼女に嘘をつきます。それを聞いた彼女は嘆き悲しみ「姿見の池」に身を投げます。帰国し悲報を聞いた重忠の心中は如何ばかりか。早速「無量山道成寺」という一堂を築き、阿弥陀如来像をそこに安置します。「恋ヶ窪」という随分ロマンチックな地名はその故事にちなんでいるという説も。西国分寺駅近くの森に囲まれた「姿見の池」には菖蒲の花が涼やかな彩を与えてくれます。

 国分寺市役所は「西恋ヶ窪」にあります。市名は、東山道と東海道を縦につなぐ重要な街道の脇に建立された大寺に由来します。国分寺(僧寺と尼寺からなる官立の寺院)は「天然痘と飢饉による多数の死者」という内憂と半島新羅国との関係悪化という外患に悩んだ聖武天皇の741年の詔によるもの。当時は迷信と政治が混然一体となっていた時代。仏教による鎮護国家を作り、国難を除去する目的からです。「遣唐使」を派遣していた時代の寺院は現在の大学。大陸の仏教哲学とともに薬草学、土木技術などの最先端の学問も輸入し研究します。諸国の有力者にあてた聖武帝の詔には「現今の禍は私の不徳の致すところ。だから仏様のお力に私もすがろうと思う。万民の幸福を願い、諸国に七重塔一基を作り、『金光明最勝王経』と『妙法蓮華経』を各10部ずつ写経せよ」とあります。

 

 市役所財政課の井上幸寛さん、学芸員の増井有真さんのご厚意で国分寺跡を訪ねました。「国内が疲弊し律令体制も揺らぎ出した時代です。地方によっては国司の怠慢や財政的な問題から遅々として進まないので、地元の豪族の協力も必要でした。完成はいつ頃かはっきりしませんが、発掘調査からおおむね東西1.5キロ、南北1キロの区画を誇る国内でも群を抜く大規模なものだったことがわかります。大伽藍は、本尊を安置する「金堂」、経典の講義に使われる「講堂」、『金字金光明最勝王経』を安置する「七重塔」などで構成され、地震対策として巨大な礎石の凹凸に柱の切り口を合わせ建物が倒壊しない工夫がしてあります」と増井さん。

 2段の河岸段丘である武蔵野面と立川面の境界線を国分寺崖線(はけ)が走り、所々で湧水池を作ります。二子玉川で多摩川に合流する野川もしかり。うっそうとした森に囲まれた日立製作所の中央研究所敷地内の「大池」は野川源流の一つ。「日立中研は何故国分寺に?」という質問に、社会イノベーション協創センタの伴真秀さんは「都心から近く、近隣に研究所も多い土地柄ですし、自然豊かで閑静な環境は集中して研究する上で適した条件の土地だったのです」。コロナ禍の前は、春の花見と秋の紅葉の季節は近隣の人たちに敷地内を開放する庭園公開日を設けています。ポストコロナの時代が明るいことを祈って国分寺を後にしました。

姿見の池

西国分寺駅に接する

ロマンチックな伝説に彩られた「姿見の池」

武蔵国分寺七重塔

「国の華」と語り継がれた

「武蔵国分寺七重塔」のレプリカ

巨大礎石群

多摩川から移送され伽藍を支える巨大礎石群

日立中央研究所の大池

日立中央研究所の「大池で遊ぶ白鳥」と

国分寺駅前のタワーマンション

談話その22

その21    (2022年6月1日)

 山岳信仰は、険しい山、深くえぐられた渓谷、滝、巨木、巨石などの自然物を崇拝し、あの世とこの世を結びつけるアニミズム的信仰から発展してきました。やがて山岳信仰は、日本古来の古神道と空海最澄の密教信仰とが結びついて、独自の「修験道」が生み出されます。
 天候不順による飢饉が続く時代は、「神様、仏様」におすがりしたいという民間信仰から、神仏習合の形態を取ります。ただ神仏習合思想によれば、神道の八百万の神々は、実は様々な仏が化身として日本の地に現れた「権現」であるとします。しかしそれは江戸末期まで。天皇を中心に神道が仏教より優位という方針で、明治政府は神仏分離令を発して寺と神社を分離します。そして神社仏閣の多くは神社の形態を取って存続することになります。


 大岳山から尾根伝いに御岳山までのルートにある山岳信仰の聖地、武蔵御嶽神社もその歴史を色濃く残しています。736年に吉野金峰山から蔵王権現の分霊を山頂に勧請したと言われていますが、はっきりしたことはわかりません。武蔵御嶽神社境内の宝物殿にある平安後期作の国宝「赤糸威鎧」は、鎌倉幕府の英傑、畠山重忠が奉納したと言われています。800年の経年変化で茜の染色は若干薄れてはいますが、往時の豪華さを偲ぶには十分。ただ、「高位の武士だけが許される死装束」としての隠された悲しみが華美の裏にはあるのです。重忠は鎌倉幕府創設の功臣の一人なのです。ところが頼朝亡き後、北条は実権を握るために血なまぐさい政争を画策し、謀反の嫌疑で畠山一族を滅ぼしてしまいます。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で俳優中川大志が演じている武将が重忠です。


 さて雨が上がりからっと晴れたある日、武蔵御嶽神社を訪れました。車で滝本駅まで向かい、そこからケーブルカーで一気に御岳山駅に。御師と呼ばれる神職の営む茅葺き銅板葺きの屋根が美しく由緒ありそうな宿坊が参道のあちこちに散在しています。御師は関東一円に散らばる参拝団体「講」を組織し、信仰を守り神社を護る重要な存在。その一つ「御岳山荘」は荘厳な銅板葺きの入り口が、どことなく鎌倉時代からの由緒を感じさせます。1251年に大仲臣国兼が金剛蔵王権現金銅像を鋳造して神社の再興を果たしたという記録が『奥院御岳縁起事』(金井家文書)として残っています。かつて平野啓子副会長の「語りの会」を開催させて頂いた宿坊なので予約なしに訪問。幸運にも御岳山観光協会副会長で大仲臣家の末裔である金井格さんにお会いできました。アポもなくお伺いしたのに、気さくで親切なお人柄にすっかり甘え、武蔵御嶽神社の謂れなどを説明してもらいました。その後神社でお祓いをして頂いたのですが、ありがたいことに金井さんから神社への素早い電話で、神社の方々からの対応は特別なものでした。


 コロナ禍で日本国内のインバウンド観光は、政府が進める「鎖国政策」でほとんどゼロにまで落ち込みました。この御岳山も同様です。山上を賑わせていた外国からの観光客はほとんどいません。その上、宿坊を利用する国内の客も十分には戻っていません。しかし、「ポストコロナ時代の観光」をそろそろ仕掛けてゆく時期が近づいています。それも新しい切り口を探しながら。そうしないと「日本はまた鎖国して昼寝か」と外国から揶揄されかねません。

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畠山重忠奉納の赤糸威鎧(国宝 レプリカ)

​(写真:青梅市郷土博物館)

ケーブルカー

急こう配を登ってゆくカラフルなケーブルカー

御岳山荘

御師が営む宿坊、銅板葺きの御岳山荘

金井家文書「武州御嶽山起立之覚」

金井家文書(武州御嶽山起立之覚)

​(写真:青梅市郷土博物館)

談話その21
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